2017リスボン祭り~1755年リスボンの大地震の爪痕~カルモ教会
6月12日(月)いよいよ 聖アント二オ祭り 前夜祭
どういうわけか、カルモ教会にまだ行ったことがない。
今日は絶対 行ってみる。
サンタ・ジュスタのリフトはバイシャ地区のランドマークです。
この写真は昨年のものです。↑
カルモ修道院(Convento da Ordem do Carmo)はサンタ・ジュスタのリフトに
乗るととても近い。係りのおじさんはしっかりと人数制限して、まだ余裕がある
ようでも決して乗せない。
エレベーターの中はとても綺麗ですが…
塗装は剥げてきたないです。塗りなおさないんですね。↓↓
エレベーターの中↓
エレベーターを降りるとバイロ・アルトに行くブリッジがありカルモ教会に出る。
ゴシック様式の教会正門 ↑↓
現在、カルモ教会の廃墟はカルモ建築博物館として利用されている。
カルモ修道院は、ロシオ広場を眺める丘の上、シアード地区にあり、前には静かなカルモ広場があります。
カルモ教会で猫と戯れる少年がとても可愛かった!
カルモ修道院と教会は、
1389年から1423年にかけ簡素なゴシック様式で建てられた、典型的な托鉢修道会の
建築物です。ジョアン1世が同時期に建てたバターリャ修道院の影響を受けている。
市内にある他のゴシック様式教会と比べ、カルモは建築でも装飾でも他を威圧すると
いわれている。
崩壊したゴシック様式の教会「カルモ教会」(Igreja do Carmo)は、
大地震の爪痕である。↑↓
1755年11月1日、リスボン大地震で修道院と教会のほとんどが破壊された。
院内の図書館と蔵書5000冊が失われた。修道院は模様替えされ、すぐに軍
の宿舎となった。木造の時期を経て、教会は二度と十分な再建がされず、
1864年にポルトガル建築協会へ寄付され、壊れた建物は博物館となった。
破壊された建物。
1755年11月1日のリスボン大地震の日も空は青かったのだろうか。
西ヨーロッパの広い範囲で強い揺れが起こりポルトガルのリスボンを中心に
大きな被害を出した。津波による死者1万人を含む、5万5000人から6万2000人が
死亡した。推定されるマグニチュードはMw8.5 - 9.0。震源はサン・ヴィセンテ岬
の西南西約200kmと推定されている。
★NHK 歴史ヒストリア ★より ↓↓↓ 長いですが・・・
現在、地震は地球の表面を覆う岩盤のズレが引き起こすものだということが分かっています。
ところが260年前のヨーロッパでは地震は全く別の原因で起きると考えられていました。
ヨーロッパの西の端にある港町がポルトガルの首都リスボンです。「七つの丘の町」と言われる
ほど起伏に富んだ町並みが広がります。今から500年前の大航海時代、リスボンはヨーロッパ随一
の繁栄を誇った町でした。目の前に広がる海を通じて世界中から莫大な富がリスボンにもたらされ
ました。
リスボンには世界中から貴重な産物が集まりました。インドからは香辛料。特に胡椒は大変高価な
物とされていました。そしてブラジルからは金やダイヤモンドなどがもたらされました。ポルトガル
の黄金時代を象徴するのがジェロニモス修道院。大航海時代にもたらされた巨万の富によって建てら
れました。しかしジェロニモス修道院を除いて、当時のリスボンの繁栄を今に伝えるものはほとんど
残されていません。巨大地震によって破壊されてしまったからです。
1755年11月1日、この日はキリスト教の祭日で町中の人が教会に集まり祈りを捧げていました。
ところが午前9時40分に地震が発生。これまでヨーロッパの人が経験したことのない大きな揺れで
した。
当時の建物は地震など想定しておらず、大きな揺れにひとたまりもありませんでした。マグニチュード
は8.5~9と考えられています。震源はリスボンから約300km離れた海底で、揺れは西ヨーロッパ中に
広がりました。この地震によって発生したのが巨大津波。大西洋を横断しカリブ海にまで到達。各地で
大きな被害をもたらしました。地震によって大混乱に陥ったリスボンの住民たちは安全な場所を求めて
逃げ惑いました。人々が向かった先は河川敷。そこで人々は一斉に引いていく川の水を目撃。その直後
大津波が町を襲いました。人々の苦難はこれだけで終わりませんでした。地震の直後、教会の蝋燭や暖炉
から燃え移った火が瞬く間に広がりリスボンの町は火の海と化したのです。炎は6日間、市街をなめ尽くし
リスボンの中心部は灰じんに帰しました。火災が短時間で広がったのは街の構造のせいでした。リスボン
では人口増加に伴って無計画に建築が進められ、狭い路地しかない建物の密集した町となっていました。
こうした街の構造が被害を拡大させてしまったのです。リスボン地震によって市街地の3分の2以上が
失われ4万人が命を落としました。
リスボン地震はなぜおきたのか?
リスボン地震が起きた11月1日は諸聖人の日、カトリックの聖人を称える祭日でした。今もこの日には
多くの人が教会に出向きミサに参加します。みなか神の恩恵に感謝を捧げ、神の祝福を受けるはずの日。
その祈りの最中に起きた大地震を当時の人々はどう受け止めたのでしょうか?「地震の真なる理由について」
には「地震は偶発的な事象でも自然の現象でもない。神の大いなる罰」と書かれています。
18世紀のリスボンではイエズス会など宗教勢力が強い力を持っていました。彼らは地震を神による罰だとする
神罰論を唱え、神に許しを請うため何よりもまず一心不乱に祈りを捧げるよう呼びかけました。そのため復旧
の機運が高まりませんでした。
そんな中、立ち上がったのがポンバル侯爵(セバスティアン・ジョゼ)です。
ポンバルはかつてイギリスに外交官として赴任した経験がありました。当時のイギリスは議会制度が整い
ヨーロッパ屈指の先進国でした。ここで合理的な考え方を身につけたポンバルは帰国後、国政にあずかる大臣に任命されました。地震の当日、リスボン市内にいたポンバルは自らも被災し命を落としかけました。
ポンバルは「神にすがるだけでは助けは得られない。誰かが立ちあがらなければ」と思いましたが、国王や
他の大臣の多くはショックのあまり茫然自失の状態でした。そうした中ポンバルは一人行動を起こしました。
震災の直後リスボンでは食料の供給が途絶え多くの人が飢えに苦しんでいました。ポンバルは国中に通達を
出しリスボンに食料を送るよう命じました。さらに物の値段をつり上げる買い占めを防ぐため価格統制令を出しました。またリスボンでは犠牲者の遺体が野ざらしにされ伝染病が広がる恐れがありました。しかし死者の数が多すぎて埋葬が追いつかない状態でした。そこでポンバルは遺体を海に流すという苦渋の決断をしました。病の感染源を街から遠ざけたことで病気にかかる人数を減らすことができました。さらに盗みを働く者が続出していました。そこでポンバルは街の目立つ場所に処刑台を作り罪人を罰しました。処罰を恐れた人たちは盗みを働かなくなり治安は守られました。
何とか急場をしのいだポンバルですが物資の不足という問題を抱えていました。地震でポルトガルの生産は
ストップ。食料も医薬品もすぐに底をついてしまいました。中でも深刻だったのが建築資材。数万の住人が家
を失っているのに仮の住まいを建てることも出来ませんでした。しかし突如国外から支援物資が届いたのです。一大貿易都市だったリスボンにはイギリスやフランスなどヨーロッパ中から商人や外交官などが集まっていま
した。彼らが一斉に祖国に手紙を送り街の惨状を伝えたのです。こうした手紙に記された地震のニュースは
各国の新聞や雑誌に大きく取り上げられ、イギリスは即座に支援を決定。スペインからは金貨、ドイツからは
布や木材などが次々と送られてきました。この支援物資を活用しポンバルは被災者に住まいを用意。9000もの
テントや仮設住宅ができあがりました。
そしてリスボンは生まれ変わった
地震の翌月、ポンバルはリスボンの再建に乗り出しました。都市再建には初めて耐震の概念が持ち込まれ
ました。科学の力で地震に備える試みがここから始まったのです。ポルトガルだけでなく世界中から技術者や
資材を集め新しいリスボンの街作りは進められました。こうしてリスボンは生まれ変わりました。
地震はなぜ起きるのかポンバルはその答えを探し求めました。地震の翌年、ポンバルはポルトガル中の教会
に地震に関する質問状を送りました。揺れはどれほど続いたのか、地面に亀裂は入らなかったか、潮位の変化
など質問項目は13にのぼりました。これは世界で初めて国家全体に行われた地震に関する調査です。
そしてリスボン地震はヨーロッパの思想にも大きな影響を与えました。被災したリスボンの様子を知った
フランスの思想家ヴォルテールは地震は神の罰だという主張を否定。ドイツの哲学者カントは地震は自然が
起こしたもので原因は科学で解明できると唱えました。こうした動きはやがて科学の力で地震の予知や防災
に取り組む現代の地震学へと繋がっていきました。
本堂の石造りの屋根は地震後崩壊しそのまま再建されず、柱の間の一部
のアーチだけが残るのみ。
ポルトガルを歩いているとご夫妻で旅している私たちと同じような
カップルを良く見かけます。
フェルナンド王(14世紀)の墓石。
これから アルファマ地区のサント・アントニオ教会に向かいます。
その前にちょっと一息 カフェでまったり。
さぁ~
聖アント二オ祭りを楽しみましょう!
お立ち寄り頂きありがとうございました。