ポルトガルが好きなんです!

 

2005年に旅行会社のツアーで初めてポルトガルに行き、すべてに魅せられました。

垢抜けないところが私にぴったり。

 2011年には勇気を出して相棒とポルトガルに個人旅行。帰りはスペイン サンセバスチャン、パリ に寄りました。

 2016年は5月29日~6月15日、三度目のポルトガル訪問。相棒のたっての願い~「石の村 モンサント」を目指ました。
  
  昨年は6月 リスボン祭り(聖アント二オ祭)に行ってきました。

帰って来て、すぐに、行きたくなる国ポルトガルです。

      今年は ポルトガルは小休止で来年1月末にアルガルベのアーモンドの花霞を見に行こうと思っていたのですが…
     
やっぱり私はポルトガル病なんですね。我慢が出来ませんでした。

今年は11月に行って思わぬアクシデントに遭遇。現在 その時の旅日記 「ポルトガルはいつも優しく迎えてくれる」を更新中です。

  これから何年生きられるか分りませんが、旅が出来る体力があるうちは出かけたいと思います。

 

            

朗読劇「この子たちの夏」1945ヒロシマ ナガサキ~上演台本より(1)

8月4日、 世田谷パブリックシアターに行ってきました。



朗読劇 『この子たちの夏 1945・ヒロシマ ナガサキ』


6人の女優が朗読します。
会場は私と同年配か、それ以上の男女が多かったように思います。外国人の姿もあり、ネイティブの同時通訳のイヤフォンガイドもあったようです。


500円のプログラムを買いましたら上演台本が掲載されていて嬉しかったです。


その中からいくつかをこれから載せていきたいと思います。私が説明するよりずっとわかりやすいかと思います。


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なんぼうにも
むごいよ
みんなにもうわすれられて
埋もれてしまった
ほとけたち
ほったらかしの
ほとけたち
なんぼうにも
むごいよ
月のかたぶくばんには
ゆうれいになってやってこい
母さんとはなそうよ
うしろむきになってはなそうよ
  《声なきものへ》 山田数子



 ★烈し日の真上にありて八月は
   腹の底より泣き叫びたき     山下萩子


 ★壕の中にたふれし少年名をきけど
   答えず悲しげに頭ふるなり    石井千津子


 ★断末魔のあえぎのなかにかすかにも
   ばんざいを唱ふ学徒よあわれ   名柄敏子


 ★服焼けて裸身となりし女学生
   ただれた両手で恥部をかくせり  河内格


 ★息すでに引き取りし子を揺さぶりて
   泣き叫ぶ母か 瓦礫の上に    荘内伍



 妹のよしこちゃんが
 やけどで
 ねていて
 とまとが
 たべたいというので
 お母ちゃんが
 かい出しに
 いっている間に
 よしこちゃんは
 死んでいた
 いもばっかしたべさせて
 ころしちゃったねと

 お母ちゃんは
 ないた
 わたしも
 ないた
 みんなも
 ないた    
   「原子雲の下より」1952年9月



《ヒロシマ》というとき
《ああ ヒロシマ》と
やさしくこたえてくれるだろうか
《ヒロシマ》といえば
《パール・ハーバー》
《ヒロシマ》といえば
《南京虐殺》
《ヒロシマ》といえば
女やこどもを
壕の中にとじこめ
ガソリンをかけて焼いた
マニラの火刑
《ヒロシマ》といえば
血と炎のこだまが
返って来るのだ
・・・・・略・・・・・
《ヒロシマ》といえば
《ああヒロシマ》とやさしいこたえが
かえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
清めなければならない



 ↑この詩は各国で翻訳されていているそうです。





8月6日、その日は暑く、朝から上天気で、雲一つない日本晴れであった。その頃女学院の二年だった私は、雑魚場町に家屋疎開の後かたづけに行かなければならなかった。
「お早よう」「お早よう」
校庭に集まった先生と生徒達はあいさつをかわしてから、
「花も蕾の若桜…」
と元気に歌いながら、雑魚場町に向かって学校を出発したのが午前7時半、ついたのは8時過ぎであったろう。そのころいつも携帯していた救急袋を下に置いて、仕事場に立った時である。誰かの、
「B29よ」
という叫びが終わるか終わらないかの中に、私は意識を失った。              (升岡直子)



気がついてみると、これはどうしたことでしょう。あたりは真っ暗闇。その中から真赤な焔がめらめらと燃え上がり、刻一刻と拡がっていきます…。
…お友だちの顔は焼けただれ、服はぼろぼろに破れ、がたがた慄えながら右往左往するありさまは、何にたとえられましょうか。先生は雛鳥をいたわる母鳥のように両脇に教え子をだかれ、生徒は恐れわななく雛鳥のように先生の脇の下に頭を突っ込んでいます。先生の頭はいつの間にか白髪に変わり、何時ものせんせいよりずっと大きく見えました。                (坂本節子)



山の草むらには、ミッションの生徒が避難していた。建物疎開のために動員された生徒たちであった。近くの家の人たちに傷の手当てをしてもらっていたが、無性に水を求めたけれど、火傷だからと飲まされず、油を出して塗ってもらっていた。その中にひとり気性のつよい人がいた。その人の声は、はげしく、きくものの胸をうった。「おかあちゃーん、おかーあちゃーん。あー、さっきまでみえよったのに、もう眼が見えんようになった」。顔が丸く腫れ上がってきた。そして何度も叫びつづけた。夜になって声がしなくなったと思ったら、亡くなっていた。(近藤幸子)



◆ 仮繃帯所にて~峠三吉


あなたたち
ないても涙のでどころのない
わめいてもつかむ手指の皮膚のない
あなたたち



血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四肢をばたつかせ
いとのようにふさいだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥ずかしいところさえはじることをできなくさせられた
あなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
たれがほんとうと思えよう
やけただれたヒロシマの

うす暗く揺らめく焔のなかから
あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎととび出し這い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのらかん頭を苦悶の埃に埋める



なぜこんな目にあわねばならぬのか
なぜこんなめにあわねばならぬのか
何の為に
なんのために

そしてあなたたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない
ただ思っている
今朝がたまでの父を母を弟を妹を
(いま逢ったってたれがあなたと知りえよう)
そして眠り起きごはんをたべた家のことを
(一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)


おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類たちのあいだにはさまって
おもっている
かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を

かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を





当時、広島市内の中学の二年生以上の生徒たちの大部分は、市周辺部の軍事工場での勤労動員に従事していた。だが一年生は市の中心部に防火地帯を作るための建物の取りこわし作業に毎日のように動員されていた。町ごとに編成された大人たちのグループが柱に縄をつけて引き倒したあとの材木や瓦を片づけるという作業である。
広島二中の一年生322人はその日も朝早く本川土手に集合していた。


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春之は生きて帰りました。とても春之とは思えぬ顔形になっておりましたが、「お母ちゃん」という声はたしかにわが子のものであり、千切れた胸の名札には、”酒井春之”とありました。
枕元に詰めかけた祖母を呼び、おじ、おばに話しかけ、妹の手を取っておとぎ話のような和やかさで話しかけておりました。記憶と意識はおそろしくはっきりし、独り言のようにつぶやいたりしておりましたので、話は明日ゆっくり聞くから、今夜は静かに寝ようね、となだめましたら「昼間、川の中でじゅうぶん寝たからいいよ」とくるしそうでないのがなによりの救いでした。死ぬのでしたら、夜を徹してでも聞くのでしたのにと、今でもいとしさで胸がいっぱいでございます。(酒井春之の母 乙女)


途中で知り合いの人に出会い、広瀬神社の前の線路の上に息子が寝ていると知らされました。上着はほとんど破れ、手の皮は千切れたような状態でした。顔は焼けて腫れ上がり、唇はザクロのようでした。その口からかすかに、水をとつぶやくように言いましたが、やれば死ぬと思い、やりませんでした。
やがて知り合いの人が自転車をもってきてくれたので、荷台に乗せたところ、安心したのでしょうか。同時に息が絶えました。ポケットを探りますと濡れた学生手帳があり、主人の写真がはさまっておりました。戦地から送られてきた大事なものでしょたので、なくしてしまい、どこへいったのかと探していたものでございました。
     (古川喜佐登の母 シズエ)


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女学校三年だった私は、学徒動員で、毎日、宇品の自宅から、横川の先の軍用庫まで作業に通っていたのです。ものすごい音と共に、あたりが真っ暗になり、私は何メートルも吹き飛んだのです。
…熱い!熱い!胸が痛い!息ができないくらい胸が痛い!でも逃げなければ、死んでしまう。…どんどんどんどん太田川の上流に向かって逃げました。
美しい流れを誇った広島の川という川には、丸裸で異様に膨れ上がった死体がいわしを並べたようにびっしりと浮いていました。
やっと近所の叔母の家にたどりつき、「只いま」というと、土間には母が立っていました。
「まあ、いきとったんね」と飛んできて、…私を抱きかかえ、「よかった、よかった」とうれし泣きに泣きくずれてしまいました。…でもその時、外傷のほとんどなかった母は、多量の放射能をあびていたのです。…母が異常に気付いたのは、10日ほど経ってからでした。
「おかしいね。ピカのときは、別に打ったとは思わんのに、紫色になっとるんよ」と体のあちこちに紫色の斑点ができているのを見せるのでした。ある朝、母は急に高い熱を出して喉が痛いと訴え、布団から起き上がれなくなりました。…40度以上あったと思う高熱は少しも下がらず、ずっと続いて真夏の暑さが余計に母を苦しめていました。
食事も、水さえも喉を通さず、無理に飲ませたら鼻や口から吹き出す始末でした。…
私は母につきっきりで看病していましたが飲ませてあげる薬もないし、頭を冷やす氷も食べさせてあげる物もなく、ただそばについて、うちわであおいであげることしかできず、”お母さん、死なないで!死んじゃダメ!”と只夢中で、うちわを動かし続けていたのです。そして9月11日の夕方、火のつくような高熱の体を、パターン、パターンと床に打ちつけるようにして、まさに七転八倒の苦しみでした。「ああ、あの冷たい田舎の川へつけてくれりゃ、気持ちがよかろうに」と泣きながらそう言っていました。そして、知らせを聞いてかけつけた母の姉に、後に残る私や弟妹のことなどを「頼むね、頼むね」と繰り返し言いながら、皆の手を握りしめたまま苦しみぬいて息を引き取ってしまいました。
まだ二歳の幼い妹だけが、母の死も知らず、一人はしゃいでいました。          (山本清子)











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