朗読劇「この子たちの夏」上演台本より(2)~真白いごはんを腹いっぱい食べさせてあげたい
世田谷パブリックシアターに行ってきました。
朗読劇「この子たちの夏」
勝司ちゃん、あなたが生まれて二週間後に支那事変が始まり、そして八月六日から十日後に終戦。戦争の間、あなたは生を受けていたのね。人間らしい楽しい生活も知らないままに。
あなたがもの心ついたころから夜は灯火管制で暗闇の生活。食べ物は大豆かすのご飯や糠のまじったおだんご。あなたは大豆かすのご飯が大嫌いだった。
八月六日のその朝も、お母さんは仕方なく大豆ご飯を炊きました。嫌いといったあなたは、おかあさんから叱られて涙をいっぱい浮かべて食べました。そして学校に行ったのね。ランドセルを背負って「行ってきます」これが最後のことばでした。あなたはそのまま二度とおかあさんの元へは帰ってこなかったの。あのとき、なぜ叱ったのだろうと、二十年たった今も心に残って仕方がないの。
あなたはどこで死んだの。火に包まれながら、おかあさん、おかあさんと泣き叫んだではないかしら。全身火傷をおいながら、苦しい息の下から、おかあさん水を、あかあさんさん水といいながら、息が絶えたのではないかしら。どんな姿になってもいい。不具者になってもいい、もう一度おかあさんのところへ帰って来てちょうだい。そしたらこの胸にしっかり抱きしめて、そして真っ白なごはんを腹いっぱい食べさせてあげたいの。これがおかあさんの切なる願いです。 (新谷勝司・母 君江)
晴信ちゃん、あのとき、あなたは国民学校の二年生でしたね。弟の賢ちゃんとは大の仲よしで、一度だってけんかしないで、賢ちゃんのいうことは、無理でもよくきいてやっていたので、賢ちゃんは「にいちゃん、にいちゃん」といって、あなたによく、くっついて歩いていましたね。
あの日、おかあさんが建物疎開の勤労奉仕に出かけるとき、賢ちゃんはまだ眠っていて、にいちゃんが門口まで送ってくれて、私が振り返ると手をふってくれましたね。
それから一時間あまりで、にいちゃんと賢ちゃんが、死ななければならないけがをするなんて、おかあさんはおおやけどして、私たち母子には、神さまも仏さまもなかったわけです。
食べる物のない戦いのさいちゅうで、肥料にする大豆カスや、苦い草だんごを食べたくもないのに、涙をこぼしながら、少しずつ口に入れてのみ込んでいたのが、今思えばかわいそうでなりません。いなかに疎開していたら、あんなにむごい目に合わなかったのにと、田舎に知り合いのいない不運が残念でなりません。これも運命とはいえ、悲しいことです。
かあさんが、勤労奉仕に出ていて、にいちゃんは賢ちゃんをつれて心細かっただろうと思えば、胸のつぶれる思いでいっぱいです。死ぬ前に、にいちゃんが、
「かあさん、こんなこわいところにいたくないよ。どこか山の中に行こうよ」といったのを忘れることができません。本当に、あんなことが起こるとわかっていたら、山の中でも、土の中でも、もぐったでしょう。地獄がこの世にあったとしら、それは、あのときのことをいうのでしょう。地獄の業火に焼かれなければならない、私たちに何の罪があったのでしょう。兄ちゃんが天国に旅立って一週間もたたないうちに、孫たちと替わってやりたいと、涙をこぼしてくれたおじいちゃんを、兄ちゃんのところに行きました。
やがていつの日か、かあさんも天国に行きますから、そのとき、心いくまで話し合いましょう。かあさんもにいちゃんが死ぬるとき、もう半分死にかけていたので、別れも言えないでごめんなさい。
この手紙は泣きながら書いています。今日でも、やっぱりあの幼い兄ちゃんと賢二ちゃんの、かわいらしい顔しか思い出せないのです。
としをとっていくこのごろは、しきりと、あなたたちのことばかり思います。戦争のない平和が、いつまでも続くよう、天国で、にいちゃんしっかり見守っていてください。
(松柳晴信・母 須磨子)