リスボン アマリア・ロドリゲスとジャカランダの花
「ありました。ありました。ジャカランダの木!」
6月9日
地下鉄ブルーラインに乗りマルケス・デ・ポンパルで乗り換えてラト駅まで。今日は★《アマリア・ロドリゲス記念館(Fundacao Amalia Rodrigues)》(1人5ユーロ)に行く!私とは何かにつけ趣味嗜好が異なる相棒だが♪ファドとアマリアは何故か2人共通なお気に入り。
リスボンでは例年5月半ばから6月の始めが一番の見頃だそう。
世界三大花木だそうです。 落ちた花びらは地面を紫に染める。
紫雲木と書いてジャカランダ。桐の花に似ていることから桐擬き(キリモドキ)とよんだ。
ハワイでは日系人が日本の桜を偲んで「ハワイ桜」や「紫の桜」とよんでいるそう。
ポルトガルでは主に街路樹として利用されている初夏の風物詩。
ジャカランダに会えたのはアマリア記念館を目指したから。
アマリア ありがとう!
地下鉄プラザ・エスパーニャから乗り、マルケス・ボンパルで乗り換えラト駅に
着く。駅の階段を上りきると・・・・
「あった==!ジャカランタの花が==!咲いている==!」思わず駆け寄りご挨拶。
「よくぞ咲いていてくれました。ありがとね」
舗道に落ちた無数の花びらはベトベトして靴底に張り付く感じ。
「これって花の蜜かな?」子供みたいにわざとピチャピチャしてみる。
この紫色の歓迎はアマリアが誘ってくれたような気がした。駅前の喧騒にある数本
のジャカランタを愛でながらカフェしばし朝ごパン。
♪🎶 アマリア・ロドリゲス記念館 ♪🎶
目立たない普通の建物らしいが黄色と聞いていたのですぐにわかった。見学はガイドの女性と一緒に歩かなくてはならず写真もダメ。ご丁寧に靴の上からビニールのカバーを着けなくてはならない。ガイドは財団の職員のようだがほとんどボランティアに近いそうだ。「毎日聴いているけれど、ファドは歌えない」そうだ。
階段はアズレージョでした。
居間もアスレージョになっていました。
お家の中は土足は厳禁。
最愛の夫と二人暮らした邸宅がそのままになっている。アマリアのお宅にお邪魔した
気分。
「失礼いたします。日本からまいりました」と心の中でアマリア夫妻にご挨拶。
アマリアの歌声が館内に響き、彼女の生活空間をのぞかせて頂いたという感じ。
彼女は小柄でドレスも靴も小さい。だが彼女の功績は大きい。
アマリアの付けていたアクセサリーのコピー。
なかなか高価でお土産には手が出ない。なにせ節約旅なので。
開館時間までここで待ちます。入場者は私たちだけでした。
個性的な声質と歌唱力で、大衆歌謡だった「ファド」を芸術の域まで高め、ポルトガル国民のみならず、世界中の人々から“ファドの女王”として愛された。世界中から授与された勲章、賞状が物語っている。
アズレージョの階段、英国製の食器が置かれたダイニング、グランドピアノの上には楽譜。ここでミュジシャン達と練習もしていたそうだ。夫妻のベッドルーム。豪華な客室。数多いアンティークやアクセサリーは、アマリア自身がデザインしたものやファンから贈られたもの。
彼女の全盛期には「アマリアが風邪をひけば通貨の相場が下がる」とまで言われたそうだ。1999年10月79才で亡くなった時は、国全体が3日間の喪に服したという。どれほどポルトガル国民に愛されていたかが偲ばれる。
♫ F A D O ♬
♪ファドは「運命」や「宿命」という意味するラテン語の”fatum"に由来すると言われる。ポルトガル人独特の魂★「サウダーデ」という言葉でも語られる。 それは、失われたものに対する郷愁、懐かしさ、悲しさ、やるせなさなどが入り交じった感情。そんな能書きはどうでもいい。本当のファドが聴きたくて初めてポルトガルに行き、それ以来ポルトガルは私の第二の故郷のような親しみのある国となった。アマリアのお蔭かもしれない。だいぶオーバーな書きようだが、これからもまた来ることになるだろう。
お庭でお茶をさせて頂きました。コーヒーは1ユーロ。お砂糖にアマリアの写真が印刷されていました。アマリアと同じ気分になれて感無量です。
アマリアが愛したお庭でお茶をさせて頂きツレも私もゆったり、ほっこり気分にさせてもらった。客は私たちだけ。庭をお掃除する女性と九官鳥はいましたが。
★カイス・ド・ソレド行のバス(706系統)に乗る。国会議事堂近くになると街路樹は紫色に変わった。長いジャカランタの道が===!続いているではないか。これなんだ。私の思い描いていた紫のリスボン!
最後まで読んでいただきありがとうございました。