ポルトガルが奜きなんです

旅の備忘録、お出かけしたずころ、お芝居やコンサヌト、矎術通など曞いおいたす。

 

  2005幎、団䜓ツアヌで初めおポルトガルに行き、すべおに魅せられたした。
垢抜けないずころが私にぎったり。

 2011幎、勇気を出しお盞棒ずポルトガルに個人旅行。垰りはスペむン サンセバスチャン、パリ に寄りたした。

 2016幎月29日月15日、䞉床目のポルトガル蚪問。盞棒のたっおの願い「石の村 モンサント」に行きたした。
  
 2017幎6月には リスボン祭り聖アント二オ祭に行っおきたした。

垰っお来お、すぐに、行きたくなる囜ポルトガルです。

  2018幎はポルトガルは小䌑止で2019幎1月末にアルガルベのアヌモンドの花霞を芋に行こうず思っおいたのですが・・・
やっぱり私はポルトガル病なんですね。我慢が出来たせんでした。
 11月に行き、思わぬアクシデントに遭遇。
その時の旅日蚘 「ポルトガルはい぀も優しく迎えおくれる」を曞いおいたす。

 什和元幎は9月に6床目のポルトガルに。ポルトの滞圚し近郊の町を蚪れ、うち2日は北郚レグア
に。ドりロ川枓谷のブドりの収穫を芋たかったのですが残念ながら2日前に終わっおいたした。

 これから䜕幎生きられるか分りたせんが、旅が出来る䜓力があるうちは出かけたいず思いたす。

 

            

🍎぀がるさ いぐべし🍏 の旅⑪ 「金朚の殿様」の六男どすお倪宰は生たいだ。


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             囜垂営重芁文化財


〒037-0202
 é’森県北接軜郡金朚町倧字金朚字朝日山4121


 接軜平野のほが䞭倮に䜍し、人口五、六千の、これずい特城もないが、どこやら郜䌚颚にちょっず気取った町である。善く蚀えば、氎のように淡泊であり、悪く蚀えば、そこの浅い芋栄坊の町ずいうこずになっおいるようである。


            小説『接軜』より





 青森県北接軜郡金朚かなき村の䞭心郚に、目を芋匵らんばかりの豪邞が萜成いたしたした。1階に11宀278坪、階に宀116坪、付属建物や泉氎を配した庭園など合わせお宅地玄680坪の豪邞です。


   

 明治の倧地䞻、接島源右衛門倪宰治の父の手で建蚭された入母屋䜜りのこの建物は、明治40幎、米蔵に至るたで日本䞉倧矎林のヒバを䜿い、圓時のお金で工事費玄䞇円をかけお造られたした。圓時、資本金が䞀䞇円あれば、銀行を蚭立し、自分が頭取になれたくらいですからこの家のすごさがおわかりになるずおもいたす。
 しかもこの誇らしげな家をたもるように圹堎や郵䟿局、銀行、医院、譊察眲などが取り囲んでおりたす。




 この家の持ち䞻、接島源右衛ですが土地の暩力者、小䜜人が300人もいる倧地䞻ずいうだけでなく金貞し業を基盀ずした新興商人、倚額玍皎による貎族院議員有資栌者、衆議院議員を歎任するこの村のボス、「金朚の殿様」でありたした。


 この家が完成しお、源右衛門ほか30人の家族、䜿甚人が䜏みはじめたしお、2回目の冬を越したした明治12幎6月19日、この家に移っお初めおの子どもが生たれたした。
六男、接島修治぀すた・すうず、のちの倪宰治です。


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倪宰はこの家を『苊悩の幎鑑』の䞭で「この父は、ひどく倧きい家を建おた。
颚情も䜕も無い、ただ倧きいのである。
」ず曞いおいたす。👇👇


私の家系には、ひずりの思想家もいない。ひずりの孊者もいない。ひずりの芞術家もいない。圹人、将軍さえいない。実に凡俗の、ただの田舎の倧地䞻ずいうだけのものであった。父は代議士にいちど、それから貎族院にも出たが、べ぀だん䞭倮の政界に斌いお掻躍したずいう話も聞かない。この父は、ひどく倧きい家を建おた。颚情も䜕も無い、ただ倧きいのである。間数が䞉十ちかくもあるであろう。それも十畳二十畳ずいう郚屋が倚い。おそろしく頑䞈な぀くりの家ではあるが、しかし、䜕の趣きも無い。 『苊悩の幎鑑』より



■この豪邞も戊埌になっお接島家が手攟し、昭和25幎から旅通「斜陜通」ずしお
旧金朚町の芳光名所ずなり、党囜から倚くのファンが蚪れおいたした。しかし、
平成幎月に旧金朚町が買い取り、旅通「斜陜通」は46幎の歎史に幕を降ろし
たした。


              

              👆この吉さんはパネルです。立䜞歊倚の通にお。


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倪宰治ぞの旅 第回 「思ひ出」の謎


斜陜通に入るずたずビデオを芋るように促されたす。


              👇👇👇

          👆のビデオに写っおいるのは越野タケさん。
母芪タネが病匱だったこずもあり乳母のタケさんに育おられたした。名䜜「接軜」に
登堎する女性です。

 

           

倪宰ゆかりの品々が眮いおありたした。

👇「これは着お写真を撮っおもいいですよ」ずいうマントで実際に倪宰が着おいたものは
文庫蔵に展瀺されおいたす。ずおも倧きくお驚きたした。

 

   マントは、わざずボタンを掛けず、小さい肩から今にも滑り萜ちるやうに、あやふく矜織぀お、さうしおそれを小粋な業《わざ》だず信じおゐたした。どこから、そんなこずを芚えたのでせう。おしやれの本胜ずいふものは、手本がなくおも、おのづから発明するものかも知れたせん。ほずんど生れおはじめお郜䌚らしい郜䌚に足を螏みこむのでしたから、少幎にず぀おは䞀䞖䞀代の凝぀た身なりであ぀たわけです。 小説「接軜」より



土間ず‎垞居 👇  土間は間口2間半4.5m) 奥行12間22m)

👇垞居

👇 茶の間

👇 沢山の家族ず䜿甚人が䜏んでいたこずがわかりたすね。


    子䟛の頃の自分にずっお、最も苊痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。
自分の田舎の家では、十人くらいの家族党郚、めいめいのお膳《ぜん》を二列に向い合せに䞊べお、末っ子の自分は、もちろん䞀ばん䞋の座でしたが、その食事の郚屋は薄暗く、昌ごはんの時など、十幟人の家族が、ただ黙々ずしおめしを食っおいる有様には、自分はい぀も肌寒い思いをしたした。それに田舎の昔気質《かたぎ》の家でしたので、おかずも、たいおいきたっおいお、めずらしいもの、豪華なもの、そんなものは望むべくもなかったので

、いよいよ自分は食事の時刻を恐怖したした。自分はその薄暗い郚屋の末垭に、寒さにがたがた震える思いで口にごはんを少量ず぀運び、抌し蟌み、人間は、どうしお䞀日に䞉床々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な顔をしお食べおいる、これも䞀皮の儀匏のようなもので、家族が日に䞉床々々、時刻をきめお薄暗い䞀郚屋に集り、お膳を順序正しく䞊べ、食べたくなくおも無蚀でごはんを噛《か》みながら、う぀むき、家䞭にうごめいおいる霊たちに祈るためのものかも知れない、ずさえ考えた事があるくらいでした。
 めしを食べなければ死ぬ、ずいう蚀葉は、自分の耳には、ただむダなおどかしずしか聞えたせんでした。その迷信は、いたでも自分には、䜕だか迷信のように思われおならないのですがしかし、い぀も自分に䞍安ず恐怖を䞎えたした。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いお、めしを食べなければならぬ、ずいう蚀葉ほど自分にずっお難解で晊枋《かいじゅう》で、そうしお脅迫めいた響きを感じさせる蚀葉は、無かったのです。
 ぀たり自分には、人間の営みずいうものが未《いた》だに䜕もわかっおいない、ずいう事になりそうです。自分の幞犏の芳念ず、䞖のすべおの人たちの幞犏の芳念ずが、たるで食いちがっおいるような䞍安、自分はその䞍安のために倜々、転茟《おんおん》し、呻吟《しんぎん》し、発狂しかけた事さえありたす。自分は、いったい幞犏なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だず人に蚀われお来たしたが、自分ではい぀も地獄の思いで、かえっお、自分を仕合せ者だず蚀ったひずたちのほうが、比范にも䜕もならぬくらいずっずずっず安楜なように自分には芋えるのです。小説 『人間倱栌』より

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二重廻しマント ずんび”ずいう名の倖套着
その名の通り、鳥の背䞭に翌が付いおいるような感じでケヌプが付いおいるこずが“ずんび”ずいう名前の由来ずか。時は明治、文明開化の頃、むギリスのむンパネス地方から日本に䌝わった西掋の”むンバネスコヌト”を和服甚に倉化しおできたもので”二重廻し”ずも呌ばれるものもありたす。
 袖はなく、袖ぐりがベスト颚に倧きいため、着物の袖も楜に通す事が出来るので、圓時の着物生掻に倧倉盞性が良かったようです。倧正・昭和の初期、䞊流瀟䌚の名士や文豪に愛された倧正ロマンの薫りがする倖套ずんびコヌトです。



二重廻《にじゅうたわ》し~ 小説のなかによく出おきたすね。


👇 ここにもマントが䞋がっおいたしたが展瀺宀にもかかっおいた。倪宰の特城を挙げおみ たす。身長174cm. 圓時ずしおは非垞に背の高い人なんですね。
れから歯が悪くお良く湯豆腐を食べおいた。䞭でも倧奜物は味の玠をかけた筋子だったそうです。酒は非垞に匷くお、いわゆる䞀升酒。乱れずにぐんぐん酒を飲む。そしお倧きなくしゃみをするず、それがもう完党にだめだずいう危険信号です。くしゃみを連発したずたんに、どこでもかたわず寝おしたう。

👇二階の廊䞋 どうしおここたでピカピカなんでしょう。どうやらニスを塗ったようです。

👇倪宰治誕生の郚屋


きょうは、六月十九日である。晎倩である。私の生れた日は明治四十二幎の六月十九日で
ある。私は子䟛の頃、劙にひがんで、自分を父母のほんずうの子でないず思い蟌んでいた
事があった。兄匟䞭で自分ひずりだけが、のけものにされおいるような気がしおいた。容
貌がたずかったので、䞀家のものから䜕かずかたわれ、それで次第にひがんだのかも知れ
ない。蔵ぞはいっお、いろいろ曞きものを調べおみた事があった。䜕も発芋出来なかった。むかしから私の家に出入しおいる人たちに、こっそり聞いお廻ったこずもある。その人た
ちは、倧いに笑った。私がこの家で生れた日の事を、ちゃんず皆が知っおいたのである。
倕暮でした。あの、小間で生れたのでした。蚊垳《かや》の䞭で生れたした。ひどく安産
でした。すぐに生れたした。錻の倧きいお子でした。色々の事を、はっきりず教えおくれ
るので、私も私の疑念を攟棄せざるを埗なかった。なんだか、がっかりした。自分の平凡
な身の䞊が䞍満であった。   『六月十九日』より


👇泉氎を配した庭園

👇仏間  ã€€ã€€ã€€ã€€ðŸ‘‡ 巚倧なお仏壇

👇障子のデザむンがいいですね。

👇来客甚のトむレ

👇金融執務宀
倧戞を入るず巊手は『店』で、勘定台たで、履物をはいたたたふみこめるようにタタキになっおいたす。小䜜人が垳堎さんず話があるずきはここぞくるのです。この掋間を『店』ず呌んでいる。最盛期には、䞉癟人近い小䜜人がいたずいうこずですから、小䜜人ず垳堎さんずの話し合いの堎が、この『店』金融業店舗であったずいうこずです。


東郷克矎氏近代文孊者・早倧名誉教授ず井䞊ひさし氏小説家・脚本家ずの察談で
話されおいたこず 「倪宰治に聞く」井䞊ひさし著より


  東郷  倪宰の生たれた家はおいでになったこずはありたすか。
  井䞊  はいありたす。
  東郷  あたり趣味のよくない家だず思いたしたけれど。
  井䞊  同感です。
  東郷  ずいぶんお金をかけた家ですが、どうもセンスがないですね。
  井䞊  そうですね。
  東郷  塀なんか英囜颚で、入口は豪商の垳堎のようで、ちょっず奥ぞ
      行きたすず蟲家の囲炉裏端があっお、それからロココたがいの
      階段を䞊っお二階に行きたすず䜕か鹿鳎通颚の装食のある応接間
      なんかがあっお、その次は金屏颚の玔日本間笑
  井䞊  あのころはやったものを党郚泚ぎ蟌んだずいう感じですね。
  東郷  それを䜕の統䞀した矎意識もなしに、お金ばかりをかけお䜜った
      ずいう気がしたすね。あれは接島ずいう家の成り立ちを非垞に
      よく暗瀺しおいる。
  
   

👇掋間

👆応接宀ずしお䜿われおいた掋間です。

👇匘前に青森銀行も堀江䜐吉氏の䜜品です。


堀江䜐吉によるもので明治時代末期の颚朮を受け、階段ず共にこの掋間は鹿鳎通颚もモダンん和掋折衷の様匏がずられおいたす。壁玙は匵り替えおありたすが倩井ず奥にある゜ファヌは圓時のたた。
䞭孊時代、寝そべっおサむダヌをがぶ飲みしたず、小説「接軜」に蚘されおいたす。


👇 母の居屋

👇 母タネの居宀です。


「曞斎」ず呌ばれおいた。倪宰の母タネの郚屋です。しかし実際には子䟛たちの勉匷郚屋であり、遊び堎ずしお䜿われおいたした。欄間は癜い雪の結晶。可愛い。どれも手のこんだ造りです。

郚屋の右から䞉番目の襖の挢詩には「斜陜」の文字。倪宰はこの襖の前に机を眮き、勉匷しおいたそうです。子䟛のころから倪宰にずっお芋慣れた蚀葉であり、小説「斜陜」ずの関連性もうかがえたす。

                  👆

               




䞻人宀

父・源右衛門や長兄・文治が䜿甚したずいわれおいる。文治は、結婚を機に建築された離れ座敷新座敷に䜏んでいたが、父亡き埌は、この郚屋に移り䜏んだ。
 源右衛門は、西接軜郡朚造村の旧家束朚家より倪宰の母・倕ネの婿逊子ずなり、青森県議を経お、明治45幎1921衆議院議員に圓遞、のち貎族院議員ずなる。
 金朚より東京での暮らしが倚くなり、金朚に戻るのは䞀、二ヶ月に1床。䞀週間ほど滞圚するず、たた東京ぞ出向いた。

👇金襖の日本間
 金色の襖が象城的な日本間。隣の銀襖ず共に遠方からの蚪れた客や議員たちが通され
貎賓宀ずしお䜿われおいtたした。倪宰は小説「接軜」を執筆する際、この郚屋に立ち寄っおいたす。兄がここで䌚食をしおいた時、倪宰は蟹田から蟹を手土産に持っおきたした。しかし䞊品なお膳のお垭に、手で食す野趣あふれる蟹を出しおいいのか悩んだそうです。兄匟の間でもどのくらいうちtけおいいのかがわからない、倪宰の心が垣間芋られる゚ピ゜ヌド
です。👇👇小説「接軜」の䞭に倪宰の心をあらわす䞀節。


           å…„匟の間では、どの皋床に瀌儀を保ち、たたどれくらゐ打ち解けお
   無遠慮にしたらいいものか、私にはただよく分かっおゐない。 䞭略 
  「蟹はどうしたせう。あずで」ず嫂は小声で私に蚀぀た。私は蟹田の蟹
   を少しお土産に持぀お来たのだ。
  「さあ。」蟹ずいふものは、どうも野趣がありすぎお䞊品のお膳をいやしく
   する傟きがあるので私はちよ぀ず躊躇した。嫂も同じ気持だ぀たのかも知れ
   ない。
  「蟹」ず長兄は聞きずがめお、「かたひたせんよ。持぀お来なさい。
   ナプキンも䞀緒に。」
   今倜は、長兄もお婿さんがゐるせゐか、機嫌がいいやうだ。
   蟹が出た。
  「おあがり、なさいたせんか。」ず長兄はお婿さんにもすすめお、自身た぀さき
   に蟹の甲矅をむいた。
   私は、ほ぀ずした。     ã€€å°èª¬ã€ŒæŽ¥è»œã‚ˆã‚Šã€

           



襖絵が芋事な和宀


掋颚階段👇

和颚造りの階に比べるず西掋颚の造りになっおいる。階段には螊り堎があり、
階倖偎廊䞋ず掋間方向ぞの方向に分かれおいる。

 階段脇には珟圚の銀行にあたる金融執務宀が蚭けられおいる。👇

接軜  倪宰のスケッチ👇


   ãã®å®¶ç³»ã«ã¯ã€è€‡é›‘な暗いずころは䞀぀も無かった。財産争いなどずいう事は無かった。芁するに誰も、醜態を挔じなかった。接軜地方で最も䞊品な家の䞀぀に数えられおいた
ようである。この家系で、人からうしろ指を差されるような愚行を挔じたのは私ひずりで
あった。『苊悩の幎鑑』より


 ã€€ç©ºè¥²ã§ã€å®¶ã‚’焌かれお金朚に疎開、8月15日の敗戊を接軜で迎えた修治は、9月から
再び創䜜掻動に入りたす。
 䜜家倪宰がこうしお立掟に立ち盎り䜜品を次から次ぞず発衚するようになったのずたったく反比䟋するように、これたで圌を支えおくれた倧地䞻の実家は、戊埌の蟲地改革によっお
没萜しおいきたす。
 あれほどたでに、暩力を持ち、土地の所有者ずしお君臚しおいた家が、厩れ萜ちおいく様を目のあたりにした修治の気持ちがお分かりになりたすか。
 金朚の私の生家など、今は「桜の園」です。あわれ深い日垞です。
                  井䌏鱒二ぞの手玙より



   ヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌ



  修治は金持ちのボッチャにしおは、のびのびした少幎らしい少幎だったようです。
自䜜の挫画を描いおは声色を䜿っお挔じお芋せお、小䜜人の子䟛たちの拍手を济びたか
ず思うず、次の日は小孊校の教垫をからかっお、廊䞋に立たされたりしおみたり  。


  倚少、実母ずの瞁が薄かったにせよ、少幎修治は倧倉幞犏な人生のスタヌトを切り
たした。
 斜陜通を蚪ねお、倪宰の気配を感じたのは「斜陜」襖がある母芪の郚屋です。
その襖の前に文机を眮いお、そこで本を読んだり、絵を描いたり、䜜文を曞いたりしお

いる姿です。きっずあの広い屋敷の䞭でちょろちょろ動き回っおいる人懐こい接島修治
぀すた・すうず少幎が芋えたような気がしたす。


長くなりたしたが最埌たで読んでくださりありがずうございたした。

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