2021 初秋 東北の旅(1) 福島県→岩手県・花巻 賢治さんのこころ
9月29日(水)
早起きして自宅を出て常磐自動車道で行きます。
福島になると👇放射線量の表示が目につきます。
私にはこの数字がいいのか悪いのかは全くわかりません。
何かを積みにいくトラック、何かを積んできたトラック数台が続いて走り去ります。
南相馬 鹿島SA 10時15分
👇国定重要無形民俗文化財 🐴相馬野馬追🏇
千有余年の歴史と伝統を誇る相馬野馬追。
👆 舞茸おこわ 420円なり。 鹿島区のお菓子屋さん、松月堂さんが作っているそうです。美味しかったです。
👆 お弁当 650円 とにかくお値段が安いのでびっくり。朝が早かったので
早めのランチにしました。美味しかったです。
👆イチジクを買いましたがすぐには食べられないそうです。見た目は熟して見えますが
あと2,3日経ってからの方が美味しいそうです。なのでお預けです。
👆👇どこもかしこも黄金色です。美しい。稲刈りがすんだところもたまに見かけます。
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イーハトーブ館
賢治に関する様々なジャンルの芸術作品、研究論文を数多く収集し、整理公開している。
宮澤賢治 童話館 イーハトーブ館
宮沢 賢治(みやざわ けんじ、正字: 宮澤 賢治、1896年(明治29年)8月27日 - 1933年(昭和8年)9月21日)は、日本の詩人、童話作家。
仏教(法華経)信仰と農民生活に根ざした創作を行った。作品中に登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県をモチーフとしてイーハトーブ(Ihatov、イーハトヴやイーハトーヴォ (Ihatovo) 等とも)と名付けたことで知られる。彼の作品は生前ほとんど一般には知られず無名に近く、没後、草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていき、今でも日本には広く愛好者が存在する。(wiki より)
幼少期の伝説
賢治には多くの「伝説」が語り継がれているが、特に本人が資料を残していない幼少期の神格化が甚だしいと指摘されている。こうした神格化を後押ししていたのが、父・政次郎や弟・清六であった。 伝説が嘘ではないにしても誇張や曲解が行われたのは関係者の思い入れと宮沢家への気遣いであろうと、山下聖美は推測している 。現代では吉田司の『宮沢賢治殺人事件』のように聖人イメージを破壊するという著作も現れている 。
• 生誕の約2ヶ月前である1896年6月15日に三陸地震津波が、誕生直後にも陸羽地震が発生した。清六は、賢治の生まれた年は東北地方に災害が多く、「それは雨や風や天候を心配し、あらゆる生物の幸福を祈って、善意を燃やし続けた賢治の生涯が、容易ならぬ苦難に満ちた道であるのをも暗示しているような年であった(兄賢治の生涯)」と述懐している 。また、1933年(没年)の3月3日に「三陸沖地震」(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。地震直後に詩人の大木実(1913年-1996年)へ宛てた見舞いの礼状 には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている 。
• 尋常小学校時代、赤いシャツを着てきた同級生が皆に囲まれ「メッカシ(めかしこんでいる)」とからかわれていた。賢治は間に入り「おれも赤シャツ着てくるからいじめるならおれをいじめてくれ」とかばった 。
• メンコで遊んでいた時、仲間の一人がメンコを追って指を馬車にひかれ出血した。賢治は「いたかべ、いたかべ」と言いながらその指を吸ってやった 。
• いたずらをした罰として水を満杯にした茶碗を持って廊下に立たされていた生徒がいた。先生の用で廊下に出た賢治は「ひどいだろう、大変だろう」と茶碗の水を飲み干してやった 。
• 尋常小学校2年の時、4人の小学生が豊沢川に流され2人が亡くなった。子供を捜索する船の明かりを大勢の人が集まり豊沢橋の上から見守っていた。賢治も同級生が流されたと聞いてこれを見ており、のちに創作のモチーフとなった 。(wiki より)
宮沢賢治記念館 入場350円
賢治の時代・地域・家族・知人といった賢治の周辺を紹介。
また、様々な人に向けた賢治のメッセージにスポットを当て。人間賢治を紹介しています。
👆 よだかの星彫刻碑
妹のトシ3歳 と 賢治5歳の写真。
👆宮沢賢治が見たまことの世界、イーハトーブの心象世界にほんとちょっぴりですが
触れることが出来ました。
これから花巻 大沢温泉に向かいます。
本日の宿です。賢治も幼いころから父親に連れられて行った♨温泉です。
今日もご覧くださりありがとうございます。拝。