ポルトガルが好きなんです!

 

2005年に旅行会社のツアーで初めてポルトガルに行き、すべてに魅せられました。 垢抜けないところが私にぴったり。

 2011年には勇気を出して相棒とポルトガルに個人旅行。帰りはスペイン サンセバスチャン、パリ に寄りました。

 2016年は5月29日~6月15日、三度目のポルトガル訪問。相棒のたっての願い~「石の村 モンサント」を目指ました。
  
  昨年は6月 リスボン祭り(聖アント二オ祭)に行ってきました。帰って来て、すぐに、
行きたくなる国ポルトガルです。

      今年は ポルトガルは小休止で来年1月末にアルガルベのアーモンドの花霞を見に行こうと思っていたのですが…
     やっぱり私はポルトガル病なんですね。我慢が出来ません。今年は11月に行ってこようと思っています。苦笑。

今年、3月に格安ツアーで(個人ではない)上海、蘇州、無錫に行きました。


 これから何年生きられるか分りませんが、旅が出来る体力があるうちは出かけたいと思います。

 

            

朗読劇「この子たちの夏」上演台本より(6)~生きる不安と苦しさを抱えて…

  


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        病身の被爆老女自殺
   緑内障に悩んでいたNさん(70歳)は12月13日、午後5時半ごろ、
   広島原爆養護老人ホーム5階北側ベランダの鉄柵を乗り越えて、約15m
   下の地面に飛び降り、頭の骨を打って即死した。……
                  (昭和49年12日14日「中国新聞」)
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ある日、わたしは原爆養護ホームに行き、Nさんが飛び降りたベランダに立って街を眺めました。ホームに沿って川が流れています。夕暮れの街には明かりが川面にうつって美しく、橋を渡る自動車のライトがキラリキラリと光っています。明かりについた家々には家庭があり、家路を急ぐ人々を待って居ることでしょう。Nさんは毎夕ここに立って街の明かりを眺めていました。その川も30年前、一瞬の原爆で多くの精霊を呑み、おびただしい屍で埋まりました。
Nさんの夫はそのころ小学校に勤務していましたが。8月6日は沢山の生徒と引率して建物疎開に行き、市役所近くで被爆し、生徒たちと共になくなりました。
Nさんも被爆後、故郷の九州にかえり、再び広島、横浜。広島と親戚を頼りながら転々と住居を変えています。原爆ホームに入所して「これでやっと気兼ねのない生活ができます」と語っていました。
その日のNさんは夕食をみな食べて、いつものように隣人の人達と共にベランダに立って夕暮れの景色を眺めていました。だれかが「もう寒いから部屋に帰りましょう」といったとき、「わたしはもうすこしここにいたいのですよ」とNさんがいわれたので、残りの人は」部屋に引き返したのだそうです。その人たちがなんとなく窓越しにベランダをみたとき、Nさんはサクをのりこえ、後ろ向きになっていました。「アッ」と大声をあげて思わず顔を覆い、再びベランダをみたとき、Nさんの姿はありませんでした。スリッパはきちんとそろえて置いてあり、覚悟の自殺でした。……(前保 美枝子)



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 焼き場に立つ少年

 



焼き場に立つ少年:米軍カメラマンが見たナガサキ
              
             ひとりごと   福田 須磨子



  何も彼(か)も  いやになりました
   原子野に屹立(きつりつ)する巨大な平和像
   それはいい それはいいけれど
   そのお金で なんとかならなかったのかしら
   ”石の像は食えぬし腹の足しにならぬ”
   さもしいといってくださいますな
   原爆後 十年をぎりぎりに生きる
   被災者の偽らぬ心境です
   ああ今年の私には気力がないのです
   平和!平和! もうあきあきしました
   いくらどなって叫んだとて
   深い空に消えてしまう様な頼りなさ
   何等の反応すら見出せぬ焦躁に
   すっかり疲れてしまいました
   ごらん原子砲がそこに届いている
   何も彼(か)も  いやになりました
   皆が騒げば騒ぐ程心は虚しい
   今迄は 焼け死んだ父さんや母さん姉さんが
   むごたらしくって可哀相で
   泣いてばかりいたけど
   今では幸福かもしれないと思う
   生きる不安と苦しさと
   そんな事しらないだけでも……


   ああ こんなんじゃいけないと
   自分を鞭うつのだけど


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            芳野あはれ    伊福 重一



     芳野は十九年間
     一度も
     普通の芳野であったっことがない
     どこかに底知れぬ翳りがあり
     本当に微笑っていない
     いつも
     わたしゃこどもの  
     不安の対象となっている
     芳野の白血病は
     日ごとに症状をましている
     わたしは芳野の症状がきになり
     つひ口に出かかるが
     芳野の気にさわってはと いつも
     そっとしてやる
     そんな芳野が
     ふっと血相を変えて
     ふたりのこどもを体ごとふいに抱きしめて
     頬すりしているのをみるとき
     わたしは
     芳野の目に
     かすかに滲むものを発見し
     瞬時
     目のやりばにとまどってしまふ
     芳野は八月九日がくるたび
     シンブンの片すみに ちひさく
     白血病患者のことが載ったとき
     芳野はもうまったくいままでの芳野ではなくなってしまふ
     耳をおほひ
     髪をかきむしりオロオロしている
     そこにはもう別のよしのがいる
     わたしは無我夢中に
     ただ芳野をあやすことに精根を注ぐ
                      (「橋」 1964年11月)



黒い雨 ~広島・長崎原爆の謎~



朗読劇「この子たちの夏」上演台本より(5)~25歳の遺稿 広島原爆病院にて

 次女の君子は被爆したとき小学校二年でしたが、白血病のため、広島原爆病院に入院して、半年後、昭和三十七年二月十六日、この世を去っていきました。二十五歳でした。君子は入院していながらも、もし元気なら謳歌していただろう青春を夢見ていました。それができない苛立ち、哀しみ、諦め、うっぷんが入れ代わり立ち代わり襲ってくるようでした。それをせめて安らげようとしたのか、君子はよく手帳に何事か書き留めておりました。                         (末次ハナ子)

               





 ◆遺稿   あの青空を仰いでみたい
                    末次 君子
明日も輸血がはいりますように
白血球よ おまえ そんなに増えないでおくれ
今日は 二月五日
入院して 四か月と二十八日
次は 半年 一年


病状はどっちを向いているのかしら
死ぬために治療するなんてムダよ
先生 どうすればよいのかしら
五か月もこんな生活をしていると 今 調子が良いのか悪いのか
さっぱりわからなくなってしまった
どうして こう泣けてくるのかしら
思いっきり大声出して泣いてみたい
坂本さん あなたも心の底で 嘆いているんでしょう
わかる気がします
でも私の気持ちもわかりますか
白血病なんて やはり 自分自身にしかわかりませんネ

そういう人のことが 誰にも分るはず


ほんとうにもう一度 よくなるかしら
もう一度 よくなってみたい
生きているだけの生活 みんなに迷惑かけたくないのに
いくらものぐさでも 自分の血くらい自分で造りたい
少し悪ければ 輸血 点滴を
すぐしてもらえる
それでも 悲しくなるばかり
どんなに 長くかかり 年をとってもよくなれば どんなにでも
してやるって兄が言った
そうだ 何だかうれしくてうれしくて 明るく 元気に朗らかに
いつでも どこでも そうであれる人間になりたい
パンプスが もう一度はけるようになるかしら
お母ちゃんは いつまでも元気で……
悪くなれば 輸血をしてもらえる
それでも 感謝する気になれないの
そういうものかしら 一番遠くに離れて行きたい
”どうにでもなれ”のくそ度胸 そんな心臓になってみたい
一生食べ行くには 何を身につけようかしら
お母さん 私がもしなおって 一人立ちするまで元気でいて下さい
自分のこの手で 料理がしてみたい
またいつの日か よいこともできるでしょう

つまんない
つまんない
つまんない
苦しむ
苦しむ
苦しむ
こんな苦しいものだったら 早く死んでしまいたい
死ぬのなら 今月中に死にたい
斑点がでないといい
舌がなおれば
胃がなおれば
むつかしい
誰にもわからないこの肉体の嘆き
早くなおりたいと思うこともあったけど この病気は なおらないでしょうネェ


私はいま 二十五歳
ああわが身がかわいい
だれでも 年に関係なく でもでも 私はやっぱり苦しい
この青春を
白血病よ 君はどこまでむしばむつもりだ
勝ってみたい
必ず勝って見せる
春になれば 暖かくなれば また少しはよくなることかと それを
楽しみにとどめています
死ぬって どういう事ですか
お医者さんだって ほどこしようないでしょう
どうして こんな病気になったのかしら
前世の契り浅からず とでしょうが

憎い 原爆が憎い
ケネディさん あなたも憎い
もう 実験なんてしないで下さい
それでなくても 小児白血病があるというのに
もう一度 よくならないのでしょか
そうなら 一生が短いほど 私はしあわせです
お母さん よくなることがあるかしら
今は悪いところばっかり
死ぬんなら 早いほうがよい
でも 本当は よくなりたい
死ぬんなら今日じゅうがよい
胃腸が 四六時中張ったよう
顔がむつかしい
口中が気持ちわるい
足先がもえるよう
いま よいところがないんです
病んで 苦しんで死ぬのはいやだ
もう一度 普通の娘になってみたい
お母ちゃん お母ちゃん お母ちゃん お母ちゃん お母ちゃん 



神 神 神 神
私のお母ちゃん 病気にならないで
せめて 一週に一度 自分で自分の血を造り 本当の普通の血を造ること
メンスになること
お母ちゃんが明日くる
輸血が明日もよくはいりますように
一と三のつく日は 強い日
いつも 強い日でありたい
ごみごみしても 町中がとても寒くても 外気にじかにふれてみたい

お母ちゃん お母ちゃん お母ちゃん お母ちゃん お母ちゃん
私の一番好きな人
お母ちゃん 一番いい

どうぞ 痛みがほかに出ませんように
また 輸血が減り 舌もなおり 顔のハレがもう少し小さくなり
調理くらいはできて 朝の散歩ができるとよいのに

お母ちゃんが病気にかからないようにお願いします
私がよくなるまで
私だって もう一度 元気になることがあると思うんです
私 もう少しよくなったらね 冷蔵庫をきれいにしたいと思っているんですよ
私はいま二十五歳 お母さんに甘えたっていいでしょうネ

自分で60から70%は血を造ること 白血球が7000で動かないこと
斑点よ 出ないでおくれ
藤本先生
石田先生
試験台でもかまわない どうしてもなおしてほしい

よくなることがあるかと明日を楽しみにするよう
いや もっと先の先を目標に闘病生活をしようと思いますが
とても苦しいです
本当は もっと気短で すぐ泣けてきて
明日をのみ思いわずらって苦しいんです
あの服と あのパンプスで 
あの青空を仰いでみたい


私は だれにも文句を言おうとは思いません
よくなろう
生きよう
生き抜こう


   昭和三十七年 死亡





















朗読劇「この子たちの夏」上演台本より(4)~しづかに歩いてつかあさい

 


 ★しづかに歩いてつかあさい  水野 潤一


 今は、新しげな建物のえっと見える
 この川辺りの町全部が
 昔は
 大けい一つの墓場でしたけえ
 今は車のえっと走っとる
 この道の下で
 うじ虫の湧いて死んで行った
 母を焼いた思い出につき刺されて


 息子がひていじゅう  (註*ひていじゅう=一日中)
 つくなんでおりますけぇ(註*つくなんで=かがんで)
    
 ほいじゃけえ
 今、広島を歩く人々よ
 どうぞ、いついきしづかァに
 こころして歩いて つかァさい
 それにまだ病院にゃあ
 えっと火傷を負うた人も
 寝とってじゃし


 今も急にどこかで
 指のいがんだ ふうわりい人や
 黒髪で いなげな頬ひきつりを
 かくしとった人が
 死んで行きよるかもしれんのじゃけぇ


 はいじゃけえ


 広島を訪れる人々よ
 この町をあるくときにァ
 どうぞ いついきしづかァに
 こころして
 歩いて行ってつかァさいや…
 のう…


◆ 辻本 一二夫 の手記


 小学校の屋根の見張りのおじさんが、鐘をたたいて叫んだ。
「…… 敵機……」
僕は真っ先におばあさんの手をつかまえてごうの一番奥へとびこんだ。
もうそのとき、
ピカッ……と光ってしまった。
そして僕は、強い風で、ごうのかべにたたきつけられた。


しばらくして、僕が防空ごうから、外をのぞいてみたら……運動場いちめんに、人間がまいてあるみたいだった。運動場の土がみえぬくらいに倒れていた。大ていは死んでしまって、動かなかった。
学校のまわりの町は、みんな燃えていた。
兄さんも、妹たちも、みんな防空ごうに走りこむのがおそかったので、やけどをして泣いていた。おばあさんはロザリオをとり出して、お祈りをしていた。僕は防空ごうの入り口に座って、お母さんとお父さんとが来るのを待った。
30分もたってから、お母さんがようやく来た。血だらけだった。お母さんはうちで、お昼のご飯の用意をしていて、やられたのだった。お母さんに、すがりついたときのうれしさは、今も忘れない。お父さんは、待てども待てども、現れなかった。
妹たちはあくる日に死んだ。
お母さんは……お母さんもそのあくる日に死んでしまった。
それから…兄さんが死んだ。ぼくも死ぬと思った。…防空ごうのなかで、ならんで寝ているだれもかも皆死ぬんだもの……。生きのこった人たちが、運動場に木を集めてきてそこでたくさんの死がいを焼いた。
兄さんも焼かれた。お母さんも、みるみるうちに骨になって、おきの間から下へぽろぽろ落ちた。…僕は泣きながら」、じょっとそれを見ていた。
おばあさんは、ロザリオの祈りをしながら見ていた。
おばあさんは、天国へ昇ったら、お母さんに会えるのだヨ、というけれども、おばあさんは、もう年寄りだから、あとすぐ天国へ行けるだろうが、しかし僕はまだ子供だから、あと何十年も先でなければ、あのやさしかったお母さんに会えない、兄さんとも遊べない、かわいい妹たちともお話しできないのだよ……。


僕は、山里小学校に入った。今は四年生だ。あの運動場はすっかりかたづいていて、たくさんの友だちが、おおよろこびで遊びまわっている。あの友だちは、ここでたくさんの子供が死んで、焼かれたことを知らない。
どうかしたときには、ふっと、あの日のことを思い出す。
そして、お母さんを焼いたその所にしゃがんで、そこの土を指でいじる。
竹で深くいじると、黒い炭のかけらが出る。そこの所を、じっと見ていると、土のなかにボーッとお母さんの顔が見えてくる。
ほかのこどもが、そこの所を足でふんで歩くのを見ると腹がたつ。
運動場へ出るたびに、僕は、あの日を思い出す。運動場はなつかしい。そして悲しい。


朗読劇「この子たちの夏」上演台本より~しづかに歩いてつかあさい 





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朗読劇「この子たちの夏」上演台本から(3)~8月9日 午前11時2分~長崎

世田谷パブリックシアターに行ってきました。
朗読劇「この子たちの夏」

                            


その日、昭和20年8月9日 午前11時2分!
ギギギギン 長く尾をひいた金属性の音
ハッと友と見合った瞬間
窓ガラスに強烈な白せん!
ものすごい雑多な物体の落下音
やがて…不気味な静寂のおとずれ
友と励まし合って這出た姿
ああ、髪はそそけ恐怖に天立ち
服はさけ、ぼろをまとうに似て
顔は泥にまみれ地図をえがく



あの子
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◆ 忌まわしき思い出の日に    (福田須磨子)


見上ぐれば太陽は真夏の昼を
黒影に ただ真赤によどみ
広い校庭はまるで幽鬼でも出そうな
サワサワと夕暮れを思わすその寂寞よ。
”全員退避”
無我夢中で山に登って行く
何処へ行くのか私は知らぬ
褌一つの生徒たち 見も知らぬ人たち

火をふいている家 つぶれている家
切断された電線 うめく声・声・声


浦上の水源地あたりという大きな壕
ここまで辿りついたとき

何ともなかった人達の皮膚の色が刻々に
変わって行くのだ
のっぺらぼうみたいに見分けもつかぬ
うめき続ける人たちの放つ異臭
水・・・水・・・とうごめく姿は
あやしくゆれるローソクの光に


もはや知覚を失った心に
しんでゆく人たちは一個の物体
異常なショックが均衡を破り
恐怖すらわいてこない
あれが浦上の天主堂
あれが山里小学校
コンクリ建の窓まどを
焔は長く赤い舌を出して
まるで霊鬼の様に荒れ狂う許り


夜だというのに もう夜が来たというのに
遠くで燃える火影は
壕の中の人達を陰鬱に照らし出す
落城の思いにも似て
現在も未来も失った魂は
次々と死んでいった人たちと一緒に
行方も知らず うろうろとさ迷う



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 叫び声
   -長崎のキノコ雲を見た
        私の生涯の記憶のために


             松永伍一



 水!
水をください!
熔けていく火の塊です
一すくいの水をくれませんか
いのちの意図をつなぎとめてください誰か!
物みながどろどろにくずれていく街のそこで
這いまわる修羅は頬の肉たらしたまま
水!
水をください!


      坊や どこ?
      うちの子をしりませんか?
      記憶が刻々に熔けていくから
      塊は死の川へずり落ちる
      お父さーん!
      みんなどこにいるの? 
      おぼろに立ちのぼる意識はゆれて
      女のうめき声
      坊や どこ?
      うちの子を知りませんか?
      坊や どこ?
      うちの子を知りませんか?
      坊や どこ?


どうか人間の形にもどしてください
それから召抱えてくださいまし
諏訪神社の神さま
浦上のマリアさま
おねがい
返事なりとしてください
どこで安穏に腰かけておいでですか
一刻も待てません
熔けてしまうのです
どうか人間のかたちにもどして
それから召しかかえてくださいまし


      胸が灼けます
      ただれ落ちる黒こげの花びらです
      命の終わりをひとりで熔けています
      見ておいでですか
      神さま
      マリアさま
      こんな爆弾を誰がこしらえましたか?
      裁いてください
      胸が灼けます
      ただれ落ちる黒こげの花びらです


水!
水をください!
熔けていく火の塊です
一すくいの水をくれませんか
水、水をください
水、水をください
いのちの糸をつなぎとめてください
誰か!         (「核戦争の危機を訴える文学者の集い」1982年3月3日)


 


 ◆純心女子学園生徒 三菱造船所にて被爆


千羽鶴 長崎平和祈念式典 2012.8.9


麗子は8月9日、この日もいつもと変りなく、元気に「行ってきます」と一言いって三菱造船所の作業にでかけたきりもどりませんでした。その夜は炎々と燃え上がる浦上を見て、この炎の中で麗子がどうしているかと思うと、親として居ても立ってもおれない気持ちで夜の明けるのを待ち、さっそくあの子の学校まで行きましたが、どこが学校かさっぱり見当がつかないくらいに変わりはてておりました。
私も死んだものと思っておりましたが、たとえ死んだにせよ、早く子供の消息を知りたいため、市役所にいって調べた結果、川棚の海軍病院にいることがわかりどんなにうれしかったかしれません。
麗子の額と足には生々しい傷がありましたが、おもったより軽く見えました。その日から私も一生懸命看病しましたが」、日に日に傷が悪化し、心臓が弱っていくのが目に見えてわかるほどでした。でも別に不平、不満を言うことなく、校長先生はご無事だろうか?友だちはどうかしら?とそのことばかり気にしておりましたが、8月30日、この日は自分の詩がわかっていたものか、来る人ごとに「大変お世話になりました」と言って慰めたくらいでした。私が最後かと思いないておりますと、「泣かんでもよかとよ。今日はゆっくり
休まんね」といって慰めてくれましたが、その夜十時ころ、ほんとに苦しむどころか安らかに、泣いている私を慰めながら帰らぬ眠りにつきました。
              (荒木麗子の母 ふじ枝)



四、五日くらいたちましてから家に収容所より連絡があさっそく迎えにまいりました。皆様に比べて元気なほうでしたけれども日々に悪化し、村の病院に入れましたが一向に快方に向かわず身体は衰弱しゆくばかりです。
日に日に髪と歯は抜け落ちてしまい、歯茎はスイカのくさった時のようになって流れ落ち、これでも生きていられるのかと思い、どうせ命のないものでしたら早く天国に引き取ってくださいと母として願っておりました。こうしたうちにも小声で賛美歌を口ずさみ、うめき声など一ことも口にしたことがございませんでした。私が「お前の苦しみを代われるものなら代わってあげたい」と申しますと、「いいえ、お母さん、自分に与えられた十字架はどんなことがあっても天国まで運ばなければいけないのよ」といっておりました。
死にます。二時間ぐらい前の8月30日の午後十時ことだったと思いますが、お別れに賛美歌を歌いますからといい、すみきった声で聖母マリア様の歌をうたって、「もうこれ以上歌う力がありません。私は十五です。もう一度元気になって学校に行きたい。またこの家の回りなどを歩いてみたい。でも私はそうすることができません。私が死んだら家族みんなの席を天国にとって待っております。もし私を火葬しましたら学校にもお骨を送ってください。と言いながらいままで心配かけたことを詫びて逝きました。
           (平松ミドリの母 ミサ)


   水求むる女学生の声やみて見返れば
      眼を開きたるままかすかに痙攣しおり
                (河内 格)



   動けんとする人に母への伝言を
      たのみて死にし友は十五歳
                (岡本 閑子)



   死に場所をここと知りしか乙女らは
      母さえ呼ばずまなこ閉じたり
                (岩村 繁俊)





朗読劇「この子たちの夏」1945ヒロシマ ナガサキ~上演台本より(1)

8月4日、 世田谷パブリックシアターに行ってきました。



朗読劇 『この子たちの夏 1945・ヒロシマ ナガサキ』


6人の女優が朗読します。
会場は私と同年配か、それ以上の男女が多かったように思います。外国人の姿もあり、ネイティブの同時通訳のイヤフォンガイドもあったようです。


500円のプログラムを買いましたら上演台本が掲載されていて嬉しかったです。


その中からいくつかをこれから載せていきたいと思います。私が説明するよりずっとわかりやすいかと思います。


  ====================


なんぼうにも
むごいよ
みんなにもうわすれられて
埋もれてしまった
ほとけたち
ほったらかしの
ほとけたち
なんぼうにも
むごいよ
月のかたぶくばんには
ゆうれいになってやってこい
母さんとはなそうよ
うしろむきになってはなそうよ
  《声なきものへ》 山田数子



 ★烈し日の真上にありて八月は
   腹の底より泣き叫びたき     山下萩子


 ★壕の中にたふれし少年名をきけど
   答えず悲しげに頭ふるなり    石井千津子


 ★断末魔のあえぎのなかにかすかにも
   ばんざいを唱ふ学徒よあわれ   名柄敏子


 ★服焼けて裸身となりし女学生
   ただれた両手で恥部をかくせり  河内格


 ★息すでに引き取りし子を揺さぶりて
   泣き叫ぶ母か 瓦礫の上に    荘内伍



 妹のよしこちゃんが
 やけどで
 ねていて
 とまとが
 たべたいというので
 お母ちゃんが
 かい出しに
 いっている間に
 よしこちゃんは
 死んでいた
 いもばっかしたべさせて
 ころしちゃったねと

 お母ちゃんは
 ないた
 わたしも
 ないた
 みんなも
 ないた    
   「原子雲の下より」1952年9月



《ヒロシマ》というとき
《ああ ヒロシマ》と
やさしくこたえてくれるだろうか
《ヒロシマ》といえば
《パール・ハーバー》
《ヒロシマ》といえば
《南京虐殺》
《ヒロシマ》といえば
女やこどもを
壕の中にとじこめ
ガソリンをかけて焼いた
マニラの火刑
《ヒロシマ》といえば
血と炎のこだまが
返って来るのだ
・・・・・略・・・・・
《ヒロシマ》といえば
《ああヒロシマ》とやさしいこたえが
かえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
清めなければならない



 ↑この詩は各国で翻訳されていているそうです。





8月6日、その日は暑く、朝から上天気で、雲一つない日本晴れであった。その頃女学院の二年だった私は、雑魚場町に家屋疎開の後かたづけに行かなければならなかった。
「お早よう」「お早よう」
校庭に集まった先生と生徒達はあいさつをかわしてから、
「花も蕾の若桜…」
と元気に歌いながら、雑魚場町に向かって学校を出発したのが午前7時半、ついたのは8時過ぎであったろう。そのころいつも携帯していた救急袋を下に置いて、仕事場に立った時である。誰かの、
「B29よ」
という叫びが終わるか終わらないかの中に、私は意識を失った。              (升岡直子)



気がついてみると、これはどうしたことでしょう。あたりは真っ暗闇。その中から真赤な焔がめらめらと燃え上がり、刻一刻と拡がっていきます…。
…お友だちの顔は焼けただれ、服はぼろぼろに破れ、がたがた慄えながら右往左往するありさまは、何にたとえられましょうか。先生は雛鳥をいたわる母鳥のように両脇に教え子をだかれ、生徒は恐れわななく雛鳥のように先生の脇の下に頭を突っ込んでいます。先生の頭はいつの間にか白髪に変わり、何時ものせんせいよりずっと大きく見えました。                (坂本節子)



山の草むらには、ミッションの生徒が避難していた。建物疎開のために動員された生徒たちであった。近くの家の人たちに傷の手当てをしてもらっていたが、無性に水を求めたけれど、火傷だからと飲まされず、油を出して塗ってもらっていた。その中にひとり気性のつよい人がいた。その人の声は、はげしく、きくものの胸をうった。「おかあちゃーん、おかーあちゃーん。あー、さっきまでみえよったのに、もう眼が見えんようになった」。顔が丸く腫れ上がってきた。そして何度も叫びつづけた。夜になって声がしなくなったと思ったら、亡くなっていた。(近藤幸子)



◆ 仮繃帯所にて~峠三吉


あなたたち
ないても涙のでどころのない
わめいてもつかむ手指の皮膚のない
あなたたち



血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四肢をばたつかせ
いとのようにふさいだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥ずかしいところさえはじることをできなくさせられた
あなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
たれがほんとうと思えよう
やけただれたヒロシマの

うす暗く揺らめく焔のなかから
あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎととび出し這い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのらかん頭を苦悶の埃に埋める



なぜこんな目にあわねばならぬのか
なぜこんなめにあわねばならぬのか
何の為に
なんのために

そしてあなたたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない
ただ思っている
今朝がたまでの父を母を弟を妹を
(いま逢ったってたれがあなたと知りえよう)
そして眠り起きごはんをたべた家のことを
(一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)


おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類たちのあいだにはさまって
おもっている
かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を

かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を





当時、広島市内の中学の二年生以上の生徒たちの大部分は、市周辺部の軍事工場での勤労動員に従事していた。だが一年生は市の中心部に防火地帯を作るための建物の取りこわし作業に毎日のように動員されていた。町ごとに編成された大人たちのグループが柱に縄をつけて引き倒したあとの材木や瓦を片づけるという作業である。
広島二中の一年生322人はその日も朝早く本川土手に集合していた。


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春之は生きて帰りました。とても春之とは思えぬ顔形になっておりましたが、「お母ちゃん」という声はたしかにわが子のものであり、千切れた胸の名札には、”酒井春之”とありました。
枕元に詰めかけた祖母を呼び、おじ、おばに話しかけ、妹の手を取っておとぎ話のような和やかさで話しかけておりました。記憶と意識はおそろしくはっきりし、独り言のようにつぶやいたりしておりましたので、話は明日ゆっくり聞くから、今夜は静かに寝ようね、となだめましたら「昼間、川の中でじゅうぶん寝たからいいよ」とくるしそうでないのがなによりの救いでした。死ぬのでしたら、夜を徹してでも聞くのでしたのにと、今でもいとしさで胸がいっぱいでございます。(酒井春之の母 乙女)


途中で知り合いの人に出会い、広瀬神社の前の線路の上に息子が寝ていると知らされました。上着はほとんど破れ、手の皮は千切れたような状態でした。顔は焼けて腫れ上がり、唇はザクロのようでした。その口からかすかに、水をとつぶやくように言いましたが、やれば死ぬと思い、やりませんでした。
やがて知り合いの人が自転車をもってきてくれたので、荷台に乗せたところ、安心したのでしょうか。同時に息が絶えました。ポケットを探りますと濡れた学生手帳があり、主人の写真がはさまっておりました。戦地から送られてきた大事なものでしょたので、なくしてしまい、どこへいったのかと探していたものでございました。
     (古川喜佐登の母 シズエ)


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女学校三年だった私は、学徒動員で、毎日、宇品の自宅から、横川の先の軍用庫まで作業に通っていたのです。ものすごい音と共に、あたりが真っ暗になり、私は何メートルも吹き飛んだのです。
…熱い!熱い!胸が痛い!息ができないくらい胸が痛い!でも逃げなければ、死んでしまう。…どんどんどんどん太田川の上流に向かって逃げました。
美しい流れを誇った広島の川という川には、丸裸で異様に膨れ上がった死体がいわしを並べたようにびっしりと浮いていました。
やっと近所の叔母の家にたどりつき、「只いま」というと、土間には母が立っていました。
「まあ、いきとったんね」と飛んできて、…私を抱きかかえ、「よかった、よかった」とうれし泣きに泣きくずれてしまいました。…でもその時、外傷のほとんどなかった母は、多量の放射能をあびていたのです。…母が異常に気付いたのは、10日ほど経ってからでした。
「おかしいね。ピカのときは、別に打ったとは思わんのに、紫色になっとるんよ」と体のあちこちに紫色の斑点ができているのを見せるのでした。ある朝、母は急に高い熱を出して喉が痛いと訴え、布団から起き上がれなくなりました。…40度以上あったと思う高熱は少しも下がらず、ずっと続いて真夏の暑さが余計に母を苦しめていました。
食事も、水さえも喉を通さず、無理に飲ませたら鼻や口から吹き出す始末でした。…
私は母につきっきりで看病していましたが飲ませてあげる薬もないし、頭を冷やす氷も食べさせてあげる物もなく、ただそばについて、うちわであおいであげることしかできず、”お母さん、死なないで!死んじゃダメ!”と只夢中で、うちわを動かし続けていたのです。そして9月11日の夕方、火のつくような高熱の体を、パターン、パターンと床に打ちつけるようにして、まさに七転八倒の苦しみでした。「ああ、あの冷たい田舎の川へつけてくれりゃ、気持ちがよかろうに」と泣きながらそう言っていました。そして、知らせを聞いてかけつけた母の姉に、後に残る私や弟妹のことなどを「頼むね、頼むね」と繰り返し言いながら、皆の手を握りしめたまま苦しみぬいて息を引き取ってしまいました。
まだ二歳の幼い妹だけが、母の死も知らず、一人はしゃいでいました。          (山本清子)