安近短な旅(3)~租界時代の上海の中心地 外難・外白渡橋に行く
博物館をあとにして上海の中心地 外難エリア
にバスで向かいます。
外は小雨です。
大急ぎで
外難(バンド)
を上っ面だけ歩きます
とにかく時間がない。仕方がない。
バスの中から見た街の風景。↑↑ ここに警察の車が止まってる。
Bund Sightseeing Tunnel ↑↑↑
☆外灘の歴史
1843年11月17日、イギリス 中国とのアヘン戦争でイギリスが勝利し、南京条約が結ばれ、その結果香港の割譲とともに、鎖国していた中国の5つの港が開港された。
その一つが上海。
蘇州、杭州、南京など歴史ある主要都市がひしめく江南地域においては一地方都市に過ぎなかった上海。港町としての利点に目をつけたイギリスが上海港を貿易港として開発した。1845年、イギリスは「租界」という中国の主権が及ばない租借地として港湾都市開発を進めていった。
さらにフランス、アメリカなど欧米列強国もそれに続き、上海を流れる長江の支流・黄浦江沿いを中心に街が広がっていった。
租界には★イギリス租界とアメリカ租界の合併した「共同租界」と★「フランス租界」の主に2つのエリアができ租界がなくなるまで続いた。「共同租界」が面積も人の数も一番多く、アメリカ人、イタリア人、ドイツ人など欧米人をはじめインド人、フィリッピン人、インドシナなどからの植民地地域からの人々も集まり無国籍地帯となっていきます。
日本人も上海に多く移住してきました。
地理的に一番地近いということもあり明治になると日本と上海を結ぶ定期航路が出来、自由貿易都市で一旗揚げようと日本人が上海に多数渡ってきました。
まず租界に進出したのは商社や銀行などの大企業。欧米的な生活をしていた。
一方 一旗揚げたいと思ってきたものの言葉の話せない日本人たちにとっては、日本語が通じて日本と変わらない生活ができる『日本人街』(虹口 ほうこう)が生活の全てだった。
租界は1945年の第二次世界大戦終戦以降なくなりましたが、当時の建築は今も残っていて外灘の歴史を伝えています。
上海の街を時間をかけて歩けば、それぞれの租界のあった場所に行けばもっと名残を見ることが出来るのでしょうね。
建築物側の歩道↑↑
デッキ下の歩道 ↑↑上海テレビ塔がそびえ立ってます
建物側の歩道
ここにも警察の車。監視カメラ。
上海をまだほんの少ししか回っていなけれど目につくのは警察の車や警察官。
ガイドさんは観光していてもいつも警察がいてくれるので安心だと自慢気に話す。
監視カメラが多く設置してあり、観光客狙いの泥棒さんなどは追跡して捕まえちゃう
ということです。
「おおお~それは安心」とその時、治安がいい事を知って喜んだ。
中国の監視カメラの数は異常に多い。それを知ったのは日本に戻ってから。
これが監視社会なのだろう。最新技術で常に見張られるのは国民たちなのだ。
ポリスの姿をよく見かけます。↑↑
川沿いの外灘遊歩道
ここにも警察の車があった。
外灘の北を流れる蘇州河に掛かる
「外白渡橋 (ガーデンブリッジ)」
1907年に架けられた橋で、現存する鉄橋として中国で最古ものだそうです。橋の長さは約52m、幅は約18m,材料はイギリスから輸入された.。100年以上が経過した今でも古いスタイルのままで残る名所の1つになっています。
ロシア領事館↑↑
『上海グランド』『最後の恋、初めての恋』など、上海を舞台にした映画の多くがこの橋でロケを行っていることでも有名。夜景や朝日を眺めるスポットとしても人気がある。
最後の恋、初めての恋 Last Love First Love 日中合作映画
新天地~上海の一等地 にやってきました。
↑↑日本からの出店「ORENO「俺の~イタリアン」だそうです。でも椅子はありますね。
「
夕食は四川料理でしたが・・・全く辛くない、四川でした.
その後は「上海雑技団」に行きます。その様子は次回に。
朝早くから目まぐるしかった一日が終わります。.
ご覧くださりありがとうございました。