ポルトガルが好きなんです!

旅の備忘録、お出かけしたところ、お芝居やコンサート、美術館など書いています。

 

  2005年、団体ツアーで初めてポルトガルに行き、すべてに魅せられました。
垢抜けないところが私にぴったり。

 2011年、勇気を出して相棒とポルトガルに個人旅行。帰りはスペイン サンセバスチャン、パリ に寄りました。

 2016年5月29日~6月15日、三度目のポルトガル訪問。相棒のたっての願い~「石の村 モンサント」に行きました。
  
 2017年6月には リスボン祭り(聖アント二オ祭)に行ってきました。

帰って来て、すぐに、行きたくなる国ポルトガルです。

  2018年はポルトガルは小休止で2019年1月末にアルガルベのアーモンドの花霞を見に行こうと思っていたのですが・・・
やっぱり私はポルトガル病なんですね。我慢が出来ませんでした。
 11月に行き、思わぬアクシデントに遭遇。
その時の旅日記 「ポルトガルはいつも優しく迎えてくれる」を書いています。

 令和元年は9月に6度目のポルトガルに。ポルトの滞在し近郊の町を訪れ、うち2日は北部レグア
に。ドウロ川渓谷のブドウの収穫を見たかったのですが残念ながら2日前に終わっていました。

 これから何年生きられるか分りませんが、旅が出来る体力があるうちは出かけたいと思います。

 

            

2017リスボン祭り~エヴォラ再訪~大聖堂と天正遣欧少年使節

エヴォラ大聖堂






 
1582年2月20日
天正少年遣欧使節
は長崎を出航して既に
二年半
を経過した
1584年8月11日 リスボンに上陸した。ポルトガル領だったマカオ・ゴア
滞在して
喜望峰廻りだったというが、少年たちにとって、どれほど過酷な旅だ
ったのだろうか…想像するだけでも心が痛む。





  リスボンから陸路でマドリードに向かう途中に立ち寄ったのがエヴォラ
だった。8日間 投宿したとある。

 

   



       この使節団の派遣は、イエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノ
     (Alessandro Valignano、1539 - 1606)神父の発案だったとされている。
      カトリック教の司祭だったヴァリニャーノは、天正7年(1579)にイエズス
      会東インド管区の巡察師として来日して各地を訪れ、大友宗麟や高山右近
      織田信長らと謁見している。



       ヴァリニャーノは、日本での布教に対するイエズス会の財政難に悩んでい
      た。それを解決する一つの方便として、日本でのイエズス会の布教の成果
      をローマ教皇に宣伝するため使節を派遣することを思いついた。
日本から
      の使節がやってくれば教皇も喜んで、我々の布教活動を支援してくださるに
      ちがいない。しかも、
派遣するには少年の方がよい。宣教師がヨーロッパの
      カトリック社会の素晴らしさを語っても、日本人は信用しない。しかし、
      日本の少年が実際にヨーロッパを見、帰国して実情をしゃべれば、日本人は
      ヨーロッパ 人の言うことも真実だと信じるようになるだろう。13歳前後の

      キリシタン大名の親類やゆかりのものを選出した。         
      長持する生き証人を確保したかった?

 

     


     回廊と宝物館 1人3€  2人で6€


  

  


  入り口にはキリスト12使徒像




  真っ先に屋根に上りました。

   

   

   


           ここで日本からの観光客の方、3人と遭遇しました。ポルトガルでツアー
   グループでない個人旅行の方とお目にかかることが少ないので嬉しくて
   思わず声をかけさせていただきました。その後  ポルトガルを楽しまれ
   無事に帰還されたことと思います。


   

   

         


   


   回廊の中庭には大きな紫陽花オレンジやオリーヴの木が。

   

    

        

           

  ↓↓   階段狭いです。


       


エヴォラの街が見渡せます。オレンジ色の屋根ジャカランダの紫が綺麗です!


 回廊を何周もしました。

  ↓ ↓ ↓  バラ窓

   

  狭いです。大人一人がやっとです。

       


           回廊上部の階は、螺旋階段を使って上り下りします。
   結構しんどいです。

                       






    天正遣欧少年使節の伊東マンショと千々石ミゲルが寄港地
マカオで習得したパイプオルガンの腕前を披露しました

(注) 
 地球の歩き方 2015~2016 には 少年らがパイプオルガンの演奏を聴いたと書いてありますが大間違い彼らは自ら演奏をしたのです.


16cにつくられた ヨーロッパで2台しかない「イベリアパイプオルガン」
現在も使用されているのです。


  中浦 ジュリアン            原 マルチノ                伊東マンショ    千々石ミゲル

                    


   






   行きは2年6ヵ月、帰りは4年3カ月もかかったのですね……
     飛行機乗って乗り継が長いなんて文句言ってはいけない、いけない。


     まだ子供の4人の少年が故郷を離れ、ローマ教皇との謁見という使命を受けて     
     長い旅路の途中に立ち寄った
エヴォラ。彼らが初めて出会ったヨーロッパの国
     ポルトガル。
433年前の彼らはどう感じたのだろう。不安だったのだろうか。        
      それとも歓迎されて誇らしかったのだろうか。



                  1585年3月23日 リスボンから7カ月後 とうとう ローマ教皇との謁見が
     実現した。教皇は心を打たれ滝のような涙を流し、イエズス会に巨額の援助
     を与えた。そして彼らは一躍
キリスト教世界のヒーローとなった。





     長崎を出航してから8年半後 少年たちは20代の青年に成長していた。
     しかし 待っていたのは
全く変わってしまった日本
     彼らの帰国の3年前の1587年には豊臣秀吉による 
バテレン追放令
    
がでて宣教師(バテレン)たちに日本から出ていくことを迫るものだった。
     キリスト教は有害・危険という”キリシタンへの弾圧”の真っただ中だったの
     だ。




      4人は帰国後、キリシタンのリーダーとして、大勢の 信者を導く司祭となり秀吉、家康ら権力者による弾圧に向き合い続けることになる。途中で不運にも伊東マンショは病死(1612年)千々石ミゲルは脱会原マルチノは海外に避難、1629年異国の地で死亡。中浦ジュリアンは追手に追われながらも布教を続けたが1633年18年間の潜伏のあげく5日間の拷問の末、殉教。60代の半ばだった。





      中浦ジュリアン 最期の言葉~
       
「私はローマを見た中浦ジュリアン司祭だ」




      **************************



多彩色のゴシック像『受胎した聖母マリア像』(15世紀)のある大きなバロックの祭壇。オリヴィエル・デ・ゲントの16世紀の作といわれる。ルネサンス期の天使ガブリエル像が、聖母像と向き合う。

       

  


     ↑↓ お腹が大きなマリア様。左手でお腹をかばうようなしぐさに見えます。

    

               



   身廊


            




                                次はエヴォラ美術館に行きます!


                                    最後まで読んで下さりありがとうございました。
        ポルトガル 旅行ブログ・テーマ
ポルトガル

×

非ログインユーザーとして返信する