2015 冬 スペイン・バスクを巡る旅~サンセバスチャンをもう一度!
2011年10月 ポルトガルからパリへの途中下車でサンセバスティアンに立ち寄り、バルでピンチョスを食べた。でも‥お金がなくて「ああ〜金があればなぁ」と歎きながら会計を気にしながらのあの悲しい経験は忘れましぇん。実はポルトガルでお財布とカードを失くしていたからです。
そう、あのときのリベンジ。★サンセバスティアンagain!★ あああああ〜期待が膨らみます。
★サンセバスティアン(San Sebastian =バスク語ではDonostia) はビスケー湾の真珠と呼ばれる避暑地。食べ物が美味しくてスペインの中でも7軒しかないミュシュラン三ッ星の内3軒がサンセバにあるそうだ。”美食の街”として知られている。夏は沢山の観光客が訪れ、9月21〜30日には”サンセバスティアン国際映画祭やジャズ・フェスなどが開催されかなりの賑わいを見せる。1月は”太鼓まつり”が知られている。
でも 団体格安旅では星の付くレストランでの食事はできません。バルでピンチョスを楽しめばそれで満足です!
ピンチョス
★ミラマール宮殿(El palacio de Miramar)はマリア・クリスティーナ王妃の命で作られ、バカンスで訪れるときに使っていた宮殿。この宮殿の小高い庭からコンチャ湾を見降ろ
す。
コンチャ湾
ミラマール宮殿
ミラマール宮殿の小高い庭からコンチャ湾を望む
司馬遼太郎がこの街を書いた文章がある。
【サンセバスチャンは、小さな入り江の海浜に沿って設計された街である。 小さな入り江は、コンチャ湾といい、両腕をつきだしたような二つの岬に守られている。海浜は砂がこまかく、やや遠浅で、海水浴場としては最適のようである。その海浜の上に「コンチャ海岸通り」という遊歩道がたかだかと構築されていて、道路から下の海浜を見下ろす劇場の気分は階上席から舞台を見るような感じに設計されている。
〜 司馬遼太郎】
薄暮になりかけていたが、目の前にコンチャ湾が開け、海浜が細く長く左右に伸び、波のない海はキラキラと輝いていた。私たちはそんなコンチャ湾を背に写真を撮り、「懐かしいね」と話した。ミラマール宮殿は現在はバスク大学の音楽科が使っているというから、聞こえてきた音楽はきっと学生たちのものだろう。
サンセバスティアンではアテンド・コーディネーターのNさんという黒髪の日本女性が引率してくれた。バスク人のご主人と誠に美しい(写真を見せてくれた)女の子の赤ちゃんと、ここで暮らしているという。スペイン語は流暢に話す彼女だが、大きな悩みがあるという。バスク語ができないこと。ご主人もスペイン語教育を受けた世代でバスク語はそううまくはないそうだ。「娘が幼稚園に行ってもすべてバスク語で、園からのお知らせもバスク語では私はそれを読めないんです。どうしようかと今から不安です」と言ってい
た。
太鼓祭りの銅像
2007年、バスク議会でバスク語を公用語とする法律が制定されて25年。バスク語での教育。昔、強制された言語が今も周囲にあり、強制された言語のみしか話さない者が暮らす環境で、禁止された言語を取り戻すことは難しい。
★バスク語
バスク語の起源はまだ謎のままで世界で最も難解な言語のひとつ。悪魔がバスク人を誘惑するためにバスク語を習ったが7年かかって覚えたのは「ハイ」「イイエ」だけだった。文法的にはヨーロッパの言語よりも日本語に近いと言われている。言語学上、孤立した言語(言語的孤島)に分類される。バスク語は文字の記録を残さなかった口承言語。その為バスク語は表記の上でラテン語のアルファベットに頼らざるを得ず、隣接する言語の影響を強く受けるようになる。
バスク語人口はスペイン・フランス合わせて50~100万人程度。彼らはスペイン語、フランス語を話すバイリンガルでもある。バスク語が独自性を保ってきたのは古代ローマ帝国における占領を受けなかったことが原因のひとつだという。
いよいよ★バル巡り(pintzos tour,bar hopping)
に行く! その様子は次回。
続く〜 読んで下さってありがとうございます。