「ビヨンブ」と ♪ファド 〜 ポルトガルが好き!
昨年の3月の催しでしたがポルトガル関連ですので思い出しながら
書いてみたいと思います。
ポルトガル語の「ビヨンブ」Biombo。
日本語の「屏風」という意味だそうです。
これは信長から贈られた屏風が「ビヨンブ」と聞こえた
からだそうです。
↑の屏風はソアーレス・ドス・レイス国立美術館で写したものです。
≪16世紀末から17世紀半ばごろ、宣教師によって
日本からポルトガルへ渡ったとされる「南蛮屏風」。
その下張りに使われた古文書の修復作業が、6月頃か
ら京都で始まる。取り組みを広く知ってもらおうと14日、
ポルトガル民族歌謡のコンサートが鎌倉で開かれる。
天正遣欧少年使節団の1人、中浦ジュリアンの子孫・
小佐々学さん(75)=さいたま市=も駆け付け、講演
する。≫
新聞記事より〜
こんな新聞記事を読んで思わず”ポルトガル”という
言葉に反応してしまっただけでなく、本場のポルト
ガル民族歌謡 "fado"が聴けるというものだから鎌倉
まで出かけてきました。(2015年 3月)
3月14日 2015年 桜が咲いていました。
南蛮船や舶来品など、スペインやポルトガルとの
交易の様子が描かれた南蛮屏風の下地には、下張り
と呼ばれる紙を幾重にも張る技法が採られた。
(屏風の一曲に約300枚使われている)
当時、紙は貴重だったため、要らなくなった文書
が用いられ、その中からは、現在 ,文化財的価値の
ある手紙などが発見されることもあるという。
これまでにも、宣教師ルイス・フロイスの署名文書や、
豊臣秀吉の家臣・安威(あい)五左衛門の往復書簡
などが見つかっている。
国会議員や財界人の有志は、「南蛮屏風下張り文書
修復プロジェクト実行委員会」(事務局・鎌倉市小町)
を発足。ポルトガル北部のポルトに所蔵されている南蛮
屏風から剥がされた下張り文書の解読や修復作業を
行う予定だそうだ。
1543年(天文12年)種子島に漂着したポルトガル
人が鉄砲を伝えて以来、ポルトガルはキリスト教や
西洋文化の窓口として、日本文化に大きな影響を
与えてきた。
世界遺産のポルトガル南東部の古都エヴォラ
(キリスト教の中心的存在であった)は、天正遣欧
少年使節団がイエズス会の神学校で勉強し、使節の
正使、伊東マンショが大聖堂でパイプオルガンを
弾いたという日本との深い交流史で知られる街。
そこには日本から渡った南蛮屏風の下張文書
(エヴォラ文書)が眠っており、400年ぶりに修復
され国際文化交流を手がける鎌倉の市民の熱意が日本・
ポルトガル両国を動かしたそうだ。
2011年の秋〜私がエヴォラに行ったとき、ガイドさん
から話があったのかもしれないが、現地のツアーに乗っ
たので全て英語の説明で理解不能だったわけで…残念。
日本でも数少ない狩野派絵師による南蛮屏風の一つ
が海を遠く離れたこのエヴォラにあったことには驚か
された。天正遣欧少年使節がエヴォラを訪問したのは、
1584年 9月、長崎を出航してから既に 2年半を経過
していた。
彼らは当時ポルトガル領だったマカオ・ゴアに滞在し、
喜望峰廻りでリスボンに上陸した。陸路でマドリッドに
向かう途中、エヴォラに 8日間投宿したと記録にある。
長崎から歓呼の声で送られ 時の法王にも謁見が
許された少年たちが8年後に帰国した時、日本国内は
キリスト教弾圧に急変し、彼等の未来に暗い影がさし
ていた。
少年のうち千々石ミゲルは棄教。伊東マンショ、
原マルチノ、中浦ジュリアンは司祭(神父)になった
が伊東神父は長崎で病死。原神父は追放されマカオ
で病死。中浦神父は弾圧、迫害下の国内に潜伏、布教。
しかし捕えられ長崎の牢に送られ、棄教させる為
拷問を受け、長崎で逆さ吊りの刑を受け殉教。
1633年〜65歳の生涯。最後の言葉は「私はローマ
に行った中浦神父である」。
2008年 ローマ法王により「福者」に列福。
鎌倉生涯学習センターホールには沢山の方たちが
集まっていた。日本とポルトガルとの歴史的つながり
を広く知ってもらいたいとこの催しを企画、ファド歌手
のマリオ・モイタさんとソライア・ブランコさんが
Fadoを披露してくれた。
Fadoにはポルトガルギターが付き物だが、マリオさんが奏でるピアノの伴奏でのファドだった。ファドは社会の底辺にいる人たちが親しむ大衆的な音楽だが、彼のピアノはクラシカルで、歌唱もエレガント。まだ23才というソライアさんのファドもオペラ歌手かと思うほどの歌唱力でなかなか聴かせる。品の良いFadoだった。
最後までよんでくださり感謝です。