新潟の旅~出雲崎は良寛さんの故郷です!
越後出雲崎は
良寛さんが生まれたところ~
👆良寛は、宝暦8年(1758)出雲崎の名主山本家(橘屋)の長男として生まれました。 山本家は代々名主職であり石井神社の神職でした。
👇良寛記念館は清楚で典雅なその造形と、50年以上にわたる文化活動が評価され、国登録有形文化財に指定されています。
uェ
👆生誕200年にあたる1965年(昭和40年)に開館しました。
門を入るとすぐに左に、良寛が仏道修行につとめ、独自の芸術を大成させた「五合庵」を模した「耐雪庵」があります。
良寛が住んだのは、寛政9年(1797)ころから、仮住まいの期間も含めて、約20年。
文化13年(1816)に乙子神社草庵に移住するまでである。
ここを拠点に多くの文人、墨客と交流し、大輪の花を咲かせたのである。
なお、現在の建物は大正3年(1914)の再建である。県の文化財(史跡)に指定されている。にいがた景勝百選の一。
“五合庵”の名前は、萬元上人が毎日米五合に相当する手当を給されていたことに由来されています。
「耐雪庵」
これは 昭和63年秋 東京と名古屋で開催された 良寛遺墨展に展示された五合庵の模型で
遺墨展の閉幕後 、主催の朝日新聞社から「良寛さんのメッカでぜひ再利用を…」との申し出があり 良寛記念館でもこのご厚意に感謝し 喜んでご寄贈をお受けした。
平成元年4月 ここに 再建して記念館生みの親佐藤耐雪翁にちなんで耐雪庵と名づけた。
間口 3.6メートル
奥行 2.7メートル
面積 14.85平方メートル
平成元年4月竣工
良寛記念館
【河内舟人】
大正、昭和の時代、日本美術院院友として活躍し「良寛さまのような人間になりたいな」が口癖であった河内舟人をご紹介した
展示ギャラリーとなっていた。院展入選作品『機綜』や代表作の『筬入れ』等を初展示。
👇館内に館内には良寛の遺墨、遺品、文献等が数多く展示されています。
旅立ちの丘
良寛が修行の為、円通寺に旅立つとき見送ってくれた
家族を懐かしんで詠んだ詩。
👇👇
👆 22歳から岡山県の円通寺に赴いて仏道修行に励み35歳で故郷の越後に戻る。
そして空庵を転々としたのち、五合庵に定住、そののち乙子庵、和島の木村家草庵に移り74歳で示寂(高僧が死ぬこと)しました。
和島は良寛と貞心尼の出逢いの地なんですね。
先日友人の合唱発表会で🎵混声合唱とピアノの
ための「良寛相聞」を聴きました。
作詞*良寛 貞心尼 作曲*千原英喜
👇子どもたちと毬つきをしたり、民衆と一緒に団欒を楽しんだり、「良寛さま」と親しまれた気取らない慈愛に満ちた人柄は、今でも昔話や民話などで語り伝えられています。
👆良寛は、宝暦8年(1758)出雲崎の名主山本家(橘屋)の長男として生まれました。 山本家は代々名主職であり石井神社の神職でした。
👇佐渡島がうっすらと。
ここから望む佐渡は、「新潟景勝百選」の1位に選ばれました。
お天気が良ければなぁ、、、、
向かいに佐渡、右手に弥彦山、眼下に良寛堂、出雲崎漁港、
そして海岸線に続く妻入りの街並みを見ることができます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
良寛記念館を後にして、道の駅 天領の里に行き、時代館や石油記念館を見て回りました、
◆ 出雲崎が天領となった理由
天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地。
①佐渡島からの金銀の荷揚げ港だった
②北前船の遺稿地だった
③北国街道の宿場町だった
④越後の三大名を監視するのに都合がよかった
出雲崎は良寛さんの生まれた町だけでなく近代石油産業の
発祥の町であったもあり歴史的にも重要な地であったことが
よくわかりました。
最後まで見て下さりありがとうございました。
これから上越のホテルに向かいます。